新章突入

 おめでと~おめでと~
 
 という訳でナポレオン漫画なんだが、新章「覇道進撃」突入直後にいきなり絶好調で何より。それにしてもsheherazadeさんのウサギ狩りの話"http://grandearmee.web.fc2.com/rabbit.htm"をサン=ニケーズ街のテロ"http://en.wikipedia.org/wiki/Plot_of_the_Rue_Saint-Nicaise"と結びつけてこういう風に加工するとは全く予想外。というかそもそもブリュメール終了後にいきなり1801年まで話が飛ぶこと自体にびっくり。もちろんマレンゴのようなおいしい話を無視することはあり得ないので、多分この後でいったん時間が遡るんだろう。敢えて時系列を入れ替えてでも今回の巻頭カラーに「おめでと~」を入れたかったんだと思う。まあ読者には十分すぎるほどのインパクトを与えただろうから、狙いは成功か。
 そしていつものように異常に力を入れているのが巻末のコメント及び新作自画像。blogまで含めて長期にわたる仕込みを踏まえたものなんだが、力入れすぎだろう。さらにいつものホットラインに今月は新刊ピックアップにも登場しており、ナポレオン時代のフランス帝国のように領土(誌面の占有面積)を拡大している。最強元帥トーナメントなどネタも万全だ。ところでパチンコは順調に客を集めているんだろうか。
 
 さていつものように史実との比較を。まずはサン=ニケーズ街のMachine infernaleからだ。漫画では爆薬を仕込んだ馬車と一緒に吹き飛ばされた少女の名前をマリアンヌ・プゾルとしている。ところが上に紹介した英語wikipediaやフランス語wikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/Attentat_de_la_rue_Saint-Nicaise"を見ると、そこにはペンソルPensolという名前が出てくるのだ。一体これはどういうことだろうか。
 結論を言うとwikipediaが間違い。このサン=ニケーズ街のテロについて行われた裁判の内容を記したと思われるProcés instruit par le tribunal criminel du département de la Seine"http://books.google.com/books?id=3m07AAAAcAAJ"の中には、少女の母親である女性の名前が「プゾル夫人」La femme Peusolと記されている。内容についてある程度はL'attentat de la Rue Saint-Nicaise"http://ledroitcriminel.free.fr/le_phenomene_criminel/crimes_et_proces_celebres/attentat_rue_saint_nicaise.htm"で確認可能だ。
 ある意味よくあることだが、要するに誰かがuとnを取り違えたのだろう。以前こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/50218969.html"で紹介したのと似たような原因で、こうした間違いが生じたと思われる。取り違えた時期はかなり古く、少なくとも1827年出版のCauses politiques célèbres du XIXe siècle"http://books.google.com/books?id=ScdwE8MQfYEC"にはペンソル未亡人La veuve Pensolという言葉が登場する(p41)。ただ、そうした間違いがインターネット時代になっても残っているのは面白い。
 もう一つの問題点はマリアンヌだ。プゾルというファミリーネームは昔の史料にきちんと出てくるが、マリアンヌの方が登場するのはgoogle bookで調べた限り最も古いものでも1924年出版のPolybiblion"http://books.google.com/books?id=5Q04AAAAMAAJ"までしか遡れない。最もそこではルノートル"http://fr.wikipedia.org/wiki/G._Lenotre"の記したLa Petite Histoireなる本からの引用としてこの名前が出てくるので、実際にはこれが最古ではないだろう。
 ただし、残念ながら元ネタであるルノートルの本は見つけられなかった。彼の本を英訳し1909年に出版されたRomances of the French revolution"http://www.archive.org/details/romancesoffrench02lenouoft"の中にもこの少女は出てくるのだが、そこでは「少女の名前はペンソル」という間違ったファミリーネームが出てくるだけで、マリアンヌというファーストネームは見当たらない。でも、上に紹介したL'attentat de la Rue Saint-Nicaiseに載っているルノートルの文章にはpetite MarianneとかMarianne Peusolという名前が出てくるので、彼の本にマリアンヌの名があることは間違いないだろう。
 もしルノートルが最初にこのマリアンヌという名を紹介した人物だとしたら、彼が一体どこからこの名前を引っ張り出したのかが問題となる。google bookでは探せないような史料、例えば教会に残されている誕生関連の記録などを調べて引っ張り出したのだとすると、もはや私の手には負えない。ルノートルの本を見つけ出せればまだ脚注などにヒントがあるかもしれないんだが、少なくともネットで閲覧できる状態では見つからない以上は仕方ない。この点については謎のままとしておこう。
 L'attentat de la Rue Saint-Nicaiseにある母親の証言によればマリアンヌは14歳。母親は何人かの人から聞いた話として、彼女がサン=ニケーズ街を通りかかったところで何者かから12スーをもらって馬車を見ているように頼まれたと話している。ルノートルは母親が警察に述べた話として「彼女は14歳、赤毛、鼻が大きく、斜視で、天然痘の痕があり、青と白の縞模様が入ったリンネルのスカートに灰色のウールの上着を着て頭に青いハンカチを被っていた」と書いている。漫画の描写が結構正確であることが分かる。
 
 ウサギ狩りでマセナが失明している。この話も有名だが、実際には屋内のウサギ狩りではなく、マルボによればフォンテーヌブローの森で行われた狩猟の時の事故だ(Mémoires du general Bon de Marbot"http://www.archive.org/details/memoiresdugenera03marb" p21)。また、弾が命中したのは彼の左目oeil gaucheであり、漫画のような右目ではない。
 失明の原因はナポレオンだとされているが、google bookで見つかった最も古い史料Dictionnaire historique et biographique des généraux français, Tome Septième"http://books.google.com/books?id=UfYJAAAAIAAJ"にはベルティエのせいだと書かれている(p377)。もっともマルボやジュノー夫人("http://books.google.com/books?id=r2wuAAAAMAAJ"のp168-169)は撃ち損ねたのはナポレオンであり、ベルティエは責任をおっ被せられただけだと記している。二人とも回想録作者としては信用できないとされているが、複数の証言があるのだから比較的信頼度は高いと見るべきだろう。
 店の主人がレジオン・ドヌール勲章をもらっているが、もちろんこの時期(1801年1月)にレジオン・ドヌール勲章は存在しない。この勲章が作られたのは翌1802年5月。ナポレオン書簡集の中に、レジオン・ドヌール勲章創設に関する文書が残っている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Septième"http://books.google.com/books?id=or2lUN-yUvAC" p461-463)。また、少なくとも現代のレジオン・ドヌール勲章"http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:PortLegHon.gif"を見ると、店の主人がもらっていたのはGrand Officier以上の勲章だが、いくらエジプト遠征の従軍経験者とはいえ一介の兵士だった人間がGrand Officierをもらうのは流石に変な気はする。漫画なんだから細かいことは気にするなと言えばそれまでなんだが。
 
 最後に1801年初頭の段階でパリにいるのはおかしいと思われる未来の元帥についていくつか指摘しておこう。Georges SixのDictionnaire biographique...によると、まず怪しいのはオージュローだ。彼は1800年11月24日にフランス・バタヴィア軍司令官になった後、1801年5月30日までその地位にとどまっていた。前線司令官の立場だった彼がお誕生会のためにパリに戻ってくるのはちと難しい。
 マセナはマレンゴ戦役でイタリア方面軍を指揮した後、1800年9月23日にリュエイユへといったん引っ込んでいる。問題はこのリュエイユの場所で、もしこれがリュエイユ=マルメゾンならパリのすぐ傍なのでいつでもウサギ狩りへの参加は可能。しかしフランス国内には他にもリュエイユという場所はある。狩猟に参加して金儲けできるかどうか、微妙なポジションだ。
 マルモンは1801年1月16日にトレヴィゾの休戦が締結されたとき、その場にいたという。それから10日以内にパリへ戻るのは距離的に厳しい。ダヴーは1800年8月からイタリア方面軍の騎兵指揮官となり、1801年7月1日にようやくフランスへ戻っている。という訳で大砲で参加している2人が実際にはいなかったことになり、裏口ががら空きとなる。王党派にとってはチャンスだ。それ逃げろ。
 ネイについてはSheherazadeさんが書いているようにボナパルトと最初に会ったのが同年5月だとすれば、実際には参加は難しいだろう。酔っ払ってボナパルトと一緒にお誕生会に参加したことをすっかり忘れてしまったならアリか。ベルティエ、ベシエール、ランヌについてはおそらく問題なく参加できたはずだ。
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