rational optimist

 マット・リドレーの繁栄"http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/116620.html"読了。原題の「合理的楽観主義者」の通り、我々の生活はこれまでも良くなってきたしこれからも良くなるだろうという話だ。リドレーはどちらかというと進化論関連の本などで有名だが、今回の本では人間の歴史そのものに焦点を当てている。
 リドレーの議論の中心となるのは「交換」だ。様々なものの交換を契機に人間は分業に取り組むようになり、その結果として自由な時間=豊かさを手に入れるようになってきた、という歴史を延々と描き出している。特に大切なのがアイデアの交換。アイデアは他人に提供しても手元から消えてなくなる訳ではない。いかにもネット時代的な考えとも言える。
 またリドレーは、交換を通じた繁栄を妨げてきたものについても考察している。彼の考えによれば最も邪魔になるのは国家(必ず官僚化し、自由な交換に制限を設けたがる)だそうだ。また知的エリートも常に悲観論を振りまき、来るべき破局を避けるためと称してやはり様々な制限を作りたがったのだとか。著者は生まれてこのかたずっと聞かされてきた悲観論が軒並み外れていたことに怒ってこの本を書き上げたのだそうだ。
 リドレーが称賛しているのはアダム・スミスやダーウィン的な考え方、つまり個々の主体(経済人や生物)の自由な行動が結果として繁栄をもたらすという発想だ。ボトムアップの考えとも言える。逆に上からの指令に基づく対応(トップダウン)は繁栄の妨げになるというのが彼の考え。理屈上そうなるというのではなく、歴史的な証拠を見る限りそうなってきたという指摘である(彼が代表例としてあげているのは中国の明朝など)。
 
 リドレーの指摘のうち、過去の話については全く異論はない。「昔は良かった」というのは単に思い出補正がかかった戯言に過ぎない。現代の先進国住民はいずれもルイ14世より恵まれた生活をしているという彼の指摘はその通りだろう。今ほど人間にとっていい時代はない。
 また、過去の悲観論が軒並み外れてきたのもこれまた事実だ。たとえば70年代には氷河期が来るというような話が出ていた。原油がいずれ枯渇するという話も何度も出てきていずれも予想を外している。環境ホルモンなんてのもあったが、もう今ではほとんどの人が忘れているだろう。遡ればマルサスの人口論も、結果的に緑の革命によって予想された酷い結果は訪れず、おまけに最近ではいずれ地球人口は頭打ちになるとの予測まで出てくるようになった。
 エリートたちによる予想がどうしてここまで外れるのか、リドレーは彼らの見通しがいつも出鱈目だったとは言っていない。ただ、そうした一連の予想はいずれも現状が続いた場合という前提が置かれており、そして現実には様々な改良(その改良はアイデアの交換によってもたらされた)を通じて前提自体が変化していった。単位面積当たりの食料生産能力に変化がなければ、人口増は悲劇をもたらしただろう。だが、実際には生産能力は向上し、かつてからは想像もできないほど大勢の人口を支えるようになった。
 ここに未来予想の難しさがある。特に近年になるほど、前提条件は変わるのが当たり前になっているのだ。予想を立て、そのための対策を打つというのが人間のよくある行動だし、その際には悲観的な想定をした方が万が一の際にも対処できるというのが普通の考えだろう。だが、対策を打つためには必要なリソースを投入しなければならない。悲観的過ぎる予想に基づいて過剰なリソースを投入してしまうと、本来ならもっと有効に使えたはずのリソースを無駄に費やしてしまいかねないのだ。悲観的すぎる予想のもたらす害悪がそこにある。
 
 リドレーはそうした発想から、将来についても悲観する必要はないと指摘する。そこで取り上げるのはアフリカと温暖化。このうちアフリカについてはあまり異論はない。援助よりも経済活動を促進するために必要な仕組みを整えれば成長するとの意見には同意する。現にサブサハラアフリカは2000年以降に大幅な成長を遂げている。そもそも同じ人間なのだからアジアでできたことがアフリカでできない筈はない。
 問題は温暖化だ。リドレーは色々と事例を挙げて説明しているが、どうも議論の仕方にまとまりがなく、ダメな懐疑論者によく見られる「散漫な論証」、つまり自説に都合のいいところだけ取り上げている印象が強い。もちろん、IPCCの第四次評価報告書が前提としている人口及び一人当たり所得が、ものによってはかなり高い"http://ipcc.ch/ipccreports/sres/emission/014.htm"ことなど、面白い指摘もある。でも説得力があるかというとそうは思えない。
 この本の主題は温暖化ではないため、細かい論証を積み重ねてページ数を増やすのは無理だろう。むしろ焦点を絞って、例えば今世紀に3度ほどの気温上昇があるという前提で(リドレーは別に温暖化自体を否定してはいない)、それが人間社会にどのような影響をもたらし、一方でそれを防ぐためのコストがどのくらいかかるかを要領よくまとめた方が、よほど読み手を説得できる論証になったのではないだろうか。
 それにリドレーの指摘の中にも微妙なものが紛れ込んでいる。彼は英国のエネルギー需要のうち化石燃料に頼っているものの4分の1を太陽光(訳文には太陽熱とあるが普通に考えて間違いだろう)で賄う場合に「ソーラーパネルがリンカンシャーに匹敵する面積の地表」を覆うとしている。リンカンシャーの面積は7000平方キロにも及ぶのだが、一方こちら"http://greenpost.way-nifty.com/softenergy/2009/03/1000kwh-4b6c.html"では日本のエネルギー需要の1割を賄うのに900平方キロで足りると計算している。
 英国の方が緯度が高く曇りの日も多そうなので発電効率は低いだろう。一方で日本の方が人口は多い。また、こちら"http://www.landartgenerator.org/blagi/archives/127"では世界全体の電力需要をソーラーパネルだけで賄うのに49万6805平方キロ必要だとしている。優秀なソーラーパネルを使う計算なので、これを半分の能力だとしても100万平方キロ弱。英国人口は世界全人口の1%であり、その4分の1を賄うとすれば広さは2500平方キロとなり、やはりリンカンシャーより狭い。リドレーが過大な数字を出している可能性があるのだ。
 リドレーは温暖化論者がしばしば温暖化の脅威を過大にフレームアップしていると指摘しているが、どうもこのソーラーパネルに関する議論は彼が批判している連中と同じことをしているように思えてならない。素直に「コスト面でつりあわず、そのコストを他の分野に投入した場合に得られるベネフィットの方が大きい」ということを論証した方が良かったのではないだろうか。
 
 温暖化対策が難しいのは懐疑論者よりIPCCの方が圧倒的に信頼性が高く、その論証も妥当に思えることだ。ロンボルグは温暖化対策に対して批判的だった人物だが、最近の報道"http://www.guardian.co.uk/environment/2010/aug/30/bjorn-lomborg-climate-change-u-turn"によれば2004年には各種政策の中でも最底辺の優先度となっていた温暖化対策について、08年に見直したところ一部の対策は全体の真ん中程度まで上昇してきたのだという。ロンボルグのような「懐疑的」な人物でも、以前よりは温暖化対策に重要性を見出している。
 だが、歴史的に見ればリドレーの言う通り悲観論は外れ続けてきた。余計な対策がリソースの無駄遣いに終わったことは数え切れないほどあるだろう。それらを全て無意味な対応と切り捨てた方が、結果的にはより効率的な発展につながるかもしれない。掛け捨ての保険と割り切って温暖化対策に投資できる分はどの程度までなのか、そのあたりの合意形成を図ることが重要なのだろう。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック