1796ドイツ―ナポレオンの所見4

 所見4――第1。フランス軍とオーストリア軍は数では同じだったが、大公は敵より騎兵で2万人上回っていた。この利点は他の国であれば決定的だろうが、ドイツ人は騎兵をどう役立てるかを知らない。彼らはそれを危険に晒すのを恐れ、実態以上に評価し、あまりにも大切にしすぎる。騎馬砲兵は騎兵という兵科の補完物である。騎兵2万と軽砲兵120門は歩兵6万人と120門の大砲に匹敵する。例えばエジプトのような広大な平野から成る国、あるいはポーランドのように荒地だらけの国なら、どちらが最終的に優位を得るかを断言するのは難しい。従って騎兵2000と軽砲兵12門は歩兵6000人と大砲6門に匹敵する。これらの師団は戦線において500トワーズの長さを占め、1トワーズ当たりは歩兵12人あるいは騎兵4騎に相当する。従って地上に立つ正面1トワーズのあらゆる者を殺す砲撃は歩兵12人、あるいは4人の騎兵と4頭の馬匹を殺すことになる。歩兵12人の損失は4人の騎兵と4頭の馬匹の損失より大きい。なぜならそれは4頭の馬匹のうち1頭に対し8人の人を失うことになるからだ[ママ]。4人の騎兵とその馬匹の装備は、12人の歩兵の装備と等価ではない。従って財政的な面からも歩兵の損失は騎兵よりも高くつく。もし大公が騎兵を大胆に使うのに慣れていた国の兵を指揮していたなら、そして騎兵を勇気づけ彼らを勝利へ導くよう訓練された士官がいたなら、フランス軍が騎兵で2万も劣っていながらドイツへ侵入するのは不可能だっただろう。ナポレオンがヴォーシャンやナンジその他でロシアやプロイセンの歩兵相手に騎兵を使った時の効果を考えるなら、この点は明らかだろう。
 第2。6月、フランス軍がケールでラインを渡ったと聞いた時、大公はラトゥール将軍を助けるためラーン河畔から行軍した。彼は下ラインにヴァルテンスレーベン将軍と3万6000人を、メンツ前面のヘヒフスハインの防御陣地に2万6000人を残した。大公は数千人の回復期にある病人と一緒に8000人の守備隊のみをメンツに、そしてヴァルテンスレーベンには2万5000人のみを残し、上ラインの軍を救援するため6万人と伴に進むべきだった。そうすれば彼はアルプ河畔に9万から10万人を集めることができただろう。一体誰が彼に抵抗できただろうか? 7月9日には彼はドゼーを破り、ライン左岸に追いやってケールとラインの橋を奪っただろう。離れた場所にいたサンブル=エ=ムーズ軍は全く恐れる必要がなかった。たとえ彼らが攻撃作戦を再開し7月10日から15日の間にマイン河に到達したとしても、彼がケールを支配しモローの軍がアルザスへ追い払われていたのであれば、彼に何の影響を及ぼしただろうか?
 第3。彼がアルプ河畔に持つ5万人を右翼の一ヶ所に集め、7月9日に3つの縦隊でムルクへ押し出していれば、彼はドゼーを右翼と左翼で迂回し、中央を打ち破ることができただろう。彼は相手を取り巻き、アルザスへ追いやり、ケールの橋を奪っていたに相違ない。ラインから切り離されたサン=シールはネッカーへと、フェリーノはユナングへ撃退されただろう。両軍が互いに戦線を築き、一方がフランス軍のように橋を通じた退路のみを持ち、もう一方がオーストリア軍のように半円形のどこからも退却できる場合には、後者はあらゆる優位を持ち、大胆な試み、大いなる一撃、敵の側面への機動を行うあらゆる機会が与えられている。彼はあらゆるエースのカードを持っており、後はプレイするだけだ。
 第4。大公はドナウの鍵であるウルムを武装化し食料を蓄え、そしていい守備隊を配備しておくべきだった。
 第5。ネレスハイムの戦いはフランスの2つの軍がアルトミュールで合流するのを妨げる唯一残った手段だった。もし勝利していれば彼はラン=エ=モーゼル軍をヴュルテンベルクアルプスとネッカーへ追いやり、そして主力軍が敗れたため、補助的な軍に過ぎないサンブル=エ=ムーズ軍はマインへの退却を強いられたであろう。ネレスハイムの戦いでフランス軍は地形の困難な場所で側面に何の守りもなく8リュー以上の戦線に散らばっていた。大公はドナウの流れ全域を支配していた。彼の攻撃は全て左翼で行われるべきだった。彼は戦線をドナウと平行に敷くべきだった。彼の退路はウルムと、ギュンツブルク及びディリンゲンの橋によって確保されていた。もしこのように機動していれば、彼は偉大な勝利を得ていただろう。フランス軍はその右翼をドナウに拠らず、フェリーノにウルムを占領させないという愚行のツケを盛大に払ったことだろう。
 第6。ネレスハイムの戦いが失敗に終わったため、大公はフランス軍の合流に対抗することを全く放棄した。もしなおそれを妨げたいと望んでいたなら、彼はドナウの左岸にとどまりながらヴァルニッツとアルトミュールへの退却を実行しただろう。ヴァルニッツの背後にラトゥール将軍麾下の3万人を残し、彼はジュールダンに向かって前進するために必要な5日か6日を稼ぐことができた。そうする代わりに彼はドナウ、ヴァルニッツ、そしてアルトミュールを渡った。ヴァルテンスレーベンは8月の間ずっと、ドナウから遠ざかりボヘミアを守るよう機動していた。かくして2つのフランス軍の合流を妨げるものは何もなくなった。
 第7。ネレスハイムの戦い後にドナウとレッヒを渡った大公は、たとえ何と主張しようとも、バイエルンを守る以外の目的を視野に入れていなかった。彼の位置は微妙だった。ラン=エ=モーゼル軍は6万人、サンブル=エ=ムーズ軍は5万人おり、従って11万人がラティスボン前面に集結しドナウの両岸を占拠するものと考えるべきだった。それに対抗するうえで彼は9万人しか持っていなかった。ネレスハイムの戦いは彼の状況を悪化させた。それはフランス軍に優位をもたらした。モローが数日間、活動せずにとどまり、大いに躊躇し、ドナウヴェルトへ行軍し、アイヒシュテットへ戻り、そしてアルトミュールに偵察すら送らなかったのを知り、彼の自信は回復した。要するにフランスの司令官たちは、あたかもドイツに他のフランス軍が存在することを互いに知らなかったかのように機動したのだ。アルトミュールを見張っていた400騎のハンガリー・ユサール騎兵はなおそこにおり、ニュルンベルクの城門やヴァルニッツに偵察を送っていた。彼が優れた移動のアイデアを思いついたのはそれからで、8月17日に2万8000人と伴にドナウを渡り、サンブル=エ=ムーズ軍に向かって前進した。彼がレッヒ河畔に3万人と伴に残したラトゥール将軍にこの問題について語った際にこのことは説明されている。彼の小さな部隊が危険を蒙りそうなことに警告を受けた将軍は、彼に向かって見解を述べた。「一体どうして勝ち誇った2倍の戦力を持つフランス軍に向かって前進することができるんだ?」それに対し公子は答えた。「その間に私がジュールダンを打ち破れるのなら、モローがウィーン前面に到着したとしてどれほどの重要性がある?」彼は正しいが、彼は将軍をラティスボン前面に配置しドナウ左岸に位置するよう命令することで将軍を勇気づけるべきだった。その場合、モローは左岸でどのような攻撃も実行できなかっただろう。
 第8。大公は8月22日まで、つまりドナウ渡河の5日後まで、ノイマルクトのベルナドットを攻撃しなかった。彼は相手をあまり熱心に攻撃せず、何の害も与えなかった。考えは素晴らしかったが実行は不適切だった。ベルナドットはドナウ渡河の24時間後に包囲され攻撃されるべきだったし、優勢な戦力による猛烈な攻撃が行われればその結果は彼の完敗だったはずだ。
 第9。彼は8月24日にアンベルクへ行軍したが、ほんの僅かな兵力しか連れていなかった。彼は2万8000人の兵の大半を二次的目標に振り向けた。彼は僅かな騎兵大隊のみでベルナドットを追撃し、そして彼の全部隊をあげてジュールダンの部隊の背後に襲いかかるべきだった。そうしてナープ河畔で戦役の行方を決めるべきだった。
 第10。9月20日、ジュールダンが軍を離れ、ライン左岸へ再渡河した時、大公は4万人の兵と伴にウルムへ前進し、ラトゥールにはインゴルシュタットの橋でドナウ左岸へと渡り強行軍で彼に合流するよう命じるべきだった。彼はフランス軍と同時にウルムに到着しただろうし、相手は7万人に向かって前進することになっただろう。そしてその退却は本当に困難になっていたに違いない。だがそうする代わりに大公は1万2000人のみを率いて上ラインに向かい、多数の兵をヴェルネック将軍と伴に無駄に下ラインに残した。彼はまたこの1万2000人の一部も誤って二次的な目的に使い、結果としてケール前面にたった8000人から9000人で到着した。
 第11。彼はラトゥール、フレーリヒ、ナダスティに、ドナウ左岸を機動して退却する軍を側面から包囲するよう命じるべきだった。彼らはそこならペトラッシュ及び他の全分遣隊を受け取れる適切な場所にいた。
 第12。戦役において大公は優れた原則に従って、しかしこわごわと機動した。理解しながらもそれを学ばない人間のように。彼は決定的な一撃を与えることはなく、既に指摘したようにフランスの司令官たちは最後の時まで常に事態を取り戻せる状態にあった。一方、大公はムルクの戦闘で戦役を決めておくべきだった。
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