前"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/50349081.html"にも少し紹介した「フランス革命題材のネットコンテンツ」、最近はイタリア遠征まで話が進んだようだ"
http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-2966.html"。最後に書かれているようにこの話はフィクション。ニースにマセナやオージュローはいなかった"
http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/nice.html"とか、世界一の沃野に連れて行くという演説は実はセント=ヘレナで語られたものである(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."
http://books.google.com/books?id=CRUgu6Jko2kC" p107)とか、ジェノヴァは中立だったから英海軍に守られていなかったとか、オージュローはモンテノッテにいなかったとかデゴで戦ったのはオーストリア軍が主力だとかピアチェンツァはアッダ川とポー河の合流点より上流にあるとか言いたいことは色々あるが、フィクションなんだから気にしたら負け。
ただ、これを読んでいるうちにロディの戦いについていくつか気になることが浮かんできたので、それについて記してみよう。
まず高級士官たちが部隊の先頭に立ったという話。ボナパルト自身の報告書"
http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/lodi_bona.html"にそう書かれているのだからそうだったと言いたいんだが、よく考えればおかしい。何しろこの突撃に参加したのは複数の大隊。その数はどう控えめに見積もっても数百人、もしかしたら1000人を超える(中には4000人説もある)。それだけの人数がさして広くもない橋の上に殺到していたのだ。彼らが足を止めた後に、高級士官たちはどうやってこの群衆の先頭にたどり着けたのだろうか。
士官は騎乗していることが多かったが、兵でごった返す橋の上を馬で移動するのは難しいだろう。となると徒歩で兵士たちをかき分けながら先頭まで行こうとしたことになるんだが、その場合はかなり時間がかかったと思われる。ところがフランス側の記録を見る限り、この部隊がオーストリア軍から砲撃を受けたのは1回のみ。1分もあれば次の砲撃ができたであろうことを考えれば、高級士官たちは極めて短時間のうちに先頭に到着していなければならないのだ。兵を押しのけながら狭い橋の上をそんなに短時間で移動することが可能なのか。
1832年に出版されたLa Trente-Deuxième Demi-Brigade"
http://books.google.com/books?id=KeEPAAAAYAAJ"では「マセナ、ランヌ、ベルティエ、ダルマーニュ、セルヴォニ、ランポン、マルモン、ルマロワ」(p166)が最初から縦隊の先頭にいたように描いている。これなら時間をかけずに隊列の先頭に立つことが可能だ。しかしそうだとしたら、オーストリア軍の砲撃による怪我人が彼らの中に一人も見当たらないのが疑問。大佐だったランヌはまだしも、参謀長であるベルティエまでが最初から突撃に参加していたというのもなかなか考えにくい。
要するにボナパルトの報告書だってそんなに当てにはならないってことだ。何しろ彼はこの報告書内で明らかに自覚的な嘘をついている。総裁政府への報告によれば橋を守っていた連合軍の大砲は「30門」あったそうだが、同じ日に彼がメナール将軍宛に記した手紙(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."
http://books.google.com/books?id=CRUgu6Jko2kC" p268)には「この町[ロディ]を支配した彼ら[オーストリア軍]はアッダ左岸の橋頭堡を占拠し、15門の大砲で守った」と書いているのだ。つまり、本国への報告に際してボナパルトは敵の大砲の数を倍に膨らませていたのである。
ジュベールが5月11日付で父親宛に記した手紙には、連合軍の戦力を「大砲16門、兵7000人」(Le Général Joubert"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5612137q" p40)と記している。オーストリア側によればこの時、アッダ河畔に並んだ大砲は「予備砲兵8門と、クロアチア部隊所属の大隊砲兵6門の計14門」(Streffleurs militärische Zeitschrift, Zweiter Band. 1825."
http://books.google.com/books?id=b95CCurYfsEC" p268)だったそうなので、メナール宛ての手紙やジュベールの手紙に出てくる数字の方が正確だったことになる。つまり、モニトゥール紙などで紹介される総裁政府への報告について、ボナパルトは彼の知っていた「事実」とは異なる自分に都合のいいお話を載せていたのだ。一次史料が必ず正しい訳ではないことを示すいい事例である。
もう一つはロディで戦闘をした理由だ。ロディが単なる後衛戦であることは間違いないし、無理に橋を渡らなくてもいずれオーストリア軍は退却していた可能性が高い。それなのになぜ急いで攻撃を仕掛ける必要があったのか。セント=ヘレナのナポレオンは以下のように説明している。
「カッサノの橋に向かって前進していたコッリの部隊はやって来なかった。ナポレオンは彼らをミンチオ川から遮断しようと望んでおり、それがロディ橋の攻撃と強行突破を彼に決断させた理由だ。実際には、彼が橋を奪ったその時、コッリはカッサノで渡河しており、そこから妨害を受けることなく退却できた」
Memoirs of the history of France during the reign of Napoleon, Vol. I."
http://books.google.com/books?id=fGguAAAAMAAJ" p5
ロディを突破し、その後でカッサノの渡河点へ進んでそこを押さえ、コッリの退路を断つ。それが攻撃を急いだ理由なんだそうだ。しかしこれに対しては昔から「後知恵の説明に過ぎない」(Fraser's Magazine, Vol. XXXIII."
http://books.google.com/books?id=L04ZAAAAYAAJ" p41)との批判はあった。ロディとカッサノの間の行軍距離は1日分もあり、少しばかり攻撃を急いだとしてもとてもコッリの退路を遮断することなどできそうになかったためだ。
実際、ナポレオンの書簡集を読むと、カッサノという地名はロディの戦いから9日後になって初めて登場する(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."
http://books.google.com/books?id=CRUgu6Jko2kC" p302)。ボナパルトがオーストリア軍の追撃を諦め、いったん踵を返してミラノを占領した後のことだ。もちろんコッリの部隊を含めたオーストリア軍はとうの昔にミンチオ川に到達し、そこに新たな防衛線を敷いていた。コッリの退路を断つために急いで河を渡る必要があったから橋に突撃した、という理由は成立しそうにない。
ではなぜ無謀とも思える橋の強行突破を試みたのか。そこで一つ参考になるのが、戦いの後にロディの司教とボナパルトが食事をした際の会話だ。書記の残していた記録なるものがStoria di Milano"
http://books.google.com/books?id=jPvQAAAAMAAJ"で読めるのだが、そこで戦闘について説明したボナパルトが「しかしこれは大したことじゃない」Però non fu gran cosaと話していることがわかる(IV, p343)。ロディの戦いについて、戦闘直後のボナパルトは「大した戦闘じゃなかった」と見なしていた訳だ。
実態としては単なる後衛戦だったのだから、この感想は当たり前だろう。いやもしかしたら、橋の強行突破ですら「大したことじゃない」と思っていた可能性すらある。ボナパルトはロディの翌日にはまだオーストリア軍の追撃を続けるつもりでいた(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."
http://books.google.com/books?id=CRUgu6Jko2kC" p262参照)。そのためにできるだけ早く橋を押さえたかったのだろう。そうした(コッリの退路遮断に比べればささやかな)メリットが、橋の上で戦死する兵士たちの損失を十分に埋め合わせると判断したからこそ、兵士たちに突撃を命じたのかもしれない。
要するに、後のナポレオン伝説の成立過程で思いっきり盛り上げられてしまった「ロディ橋」の幻影に、我々は眼をくらまされている可能性があるってことだ。実際のロディ橋強行突破は、軍人の目から見ればそれほど危険でもなかったし、その程度のリスクは「大したことじゃない」と思われていた。だが、ボナパルトが盛り上げて書いた報告書のおかげでロディ橋渡河は一大戦闘となり、橋の上を走る行為は全軍の命運を賭けた大事業となり、そうしたリスクを犯した理由として後に「コッリの退路遮断」なる後づけの説明まで生み出されることになった、のかもしれないのだ。
もちろん、実際に橋の上を走らされた兵士たちにとって命がけの行為であったのは確かだろう。でも高級軍人に言わせれば、それは戦争において当たり前に存在するリスクの一種でしかなかった可能性がある。過去においては現代よりも人命が安かったことを示す一例とも言えそうだ。
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