1796ドイツ―ナポレオンの所見3

 所見3――(モロー)ライン渡河は6月24日に実施されたが、サンブル=エ=ムーズ軍が移動を始めた同月1日から4日の間に行われるべきだった。6月24日、渡河の日、最初の兵は午前3時に右岸に到達した。橋は正午には完成すべきだったし、25日夜明けまでに全軍が渡河を終えて戦線を構築しておくべきだった。実際には橋は25日正午まで完成せず、24時間ほど時間がかかりすぎだった。ラインのような河の渡河作戦は極めて繊細であり、兵を長期に渡って連絡の取れないまま晒しておくべきではなかった。
 第2。26日、ライン方面軍は右岸に4万人しかいなかった。サン=シールと2万人は左岸のファルツに、ラボルドと1万人は上ラインにとどまっていた。どんなに遅くとも全軍6万人を構成する3個軍団と予備は26日正午には右岸にいて、河に沿って分散した敵師団を奇襲し圧倒すべく行軍しているべきだった。6月27日にはラシュタットに入城し、30日にはフィリップスブルクとマンハイムを封鎖したうえでスフォルツハイムに入城し、7月1日から4日の間にはネッカー川に到着して敵をそこから切り離すべきだった。そうすれば司令官は15日分を手に入れ、重要でないいくつかの戦闘に兵を巻き込まずに済んだだろう。不要な戦闘の代わりに彼は、既にかなり兵力で劣っている敵を一段と弱体化させるいくつかの素晴らしい勝利を得られただろう。しかもそれは公子カールがラーン河畔から戻ってくる前に実現したはずだ。フランスの将軍の優柔不断さは敵の司令官に、ライン渡河の13日後にケールから3日行程にあるエトリンゲンに彼の軍を集める時間を与えた。7万人と伴に攻撃作戦を開始した時点で、フランスの将軍が共和国の領土について何を恐れる必要があったのだろうか?
 第3。ライン渡河後、そしてサンブル=エ=ムーズ軍との合流を果たす前に、この司令官は軍の3分の1近く(2万人)から成るフェリーノ麾下の右翼を派出した。彼はライン河畔を遡り、シュヴァルツヴァルトを越え、中央と左翼がネッカー川へ前進を続けている間、コンスタンス湖へ進んだ。かくして軍はヴュルテンベルクアルプスに、シュヴァルツヴァルトの山に、そしてドナウ河によって2つに切り離され、それに対しフェリーノに対峙していたスタライ将軍は、シュヴァルツヴァルトの出口で抵抗した後はその戦力をネッカー河畔に集中し公子カールの軍の左翼と合流した。ライン方面軍の3分の2は、敵兵の大半が現れる前に5万人の戦力でネッカーに到着した。マイン河畔のジュールダンとコンスタンス湖沿いのフェリーノの前には、極めて劣勢な敵しかいなかった。かくしてこの行軍でフランス軍は3つの部隊に分かれ、相互に共通点はなく、3つの作戦線を使い、6つの翼側を持ちそのうち5つは守られていなかった。翼側はは最も弱いところなので守られなければならず、それができないなら可能な限りその数を少なくすべきである。
 第4。ヴュルテンベルクアルプスを越えてシュトゥットガルトへ向かったライン方面軍の行軍は、この戦争の精神と一致したものだった。しかし司令官は極めて重要な場所であるウルムを占拠すべきだった。そこを確保することなく、ティロルとスイスの山からチューリンギアとザクセンの山まで広がるドナウ盆地での戦争を実行することは不可能だからだ。彼は右翼をドナウに拠るべきだったし、そうしていればネレスハイムに到着した時にそちらが守られていないような事態にはならなかった。しかしネレスハイムの戦いで右翼と左翼双方を迂回され、しかも中央の支援もなかったにもかかわらず、彼はフランス軍の名誉を保持し、冷静さと忍耐力を示した。
 第5。ネレスハイムの戦い後、彼はジュールダンと合流すべくヴァルニッツとアルトミュールへ強行軍で進み、ラティスボンに司令部を定め、ウルムの次に彼にとって最も重要な場所であるそこの防衛を強化し、そして両岸を機動すべきだった。両軍の合流は8月15日か16日には実現しただろう。この戦役の成功は決まっていたに違いない。だが、そうする代わりに彼は敵が望みうるあらゆることをした。彼は戦役の最も重大な時期に12日間も活動しないままだった。ついにはドナウとレッヒを渡ることを決断した。その後で彼は再び16日間も活動を止めた。彼は自分の左側にフランス軍がいることを知らなかったのではと思いたくなるほどだ。ネレスハイムの戦いの1ヶ月後、そしてサンブル=エ=ムーズ軍が既に彼から80リューも離れたラーン河畔にいた9月10日になって、彼はジュールダンの情報を得るためドゼーの師団をドナウ左岸に派出することを決意した。9月19日、彼は退却を始めレッヒを再渡河した。サンブル=エ=ムーズはライン左岸で戦闘能力を失っており、彼は敵の全軍と戦わなければならなかった。従って彼は、自らの半分を超えない戦力しか持たないラトゥール将軍の前に32日間とどまりながら、攻撃も、会戦も、敵を圧倒することもしなかった。それどころか彼は敵に何の害も与えなかった。この戦役における唯一の重要な出来事はビベラッハの戦いで、それは軍が退路を確保する必要から生じた。この戦いは、もし作戦が翌日も継続され、軍の一部でラトゥール将軍を追撃し、残りがシュヴァルツヴァルトの出口を開くべく機動していれば、もっと重要な結果を持ちえたであろう。ドナウの鍵であるウルムの重要性が実感されたのは、この退却においてだった。
 第6。10月14日にフライブルクとアルト=ブリザッハに到着した時点で、2つの選択肢があった。サンブル=エ=ムーズ軍と連携するため同日にラインを再渡河し、軍に休憩の機会を与えるか、あるいは公子カールがまだ十分な戦力を持たないのを利用すべくすぐ彼に向かって行軍し、彼をレンヒェンとムルクの対岸へ追い払い、ラトゥールとの合流を阻止する。フランス軍はバーデンとブリスガウに陣地を維持できただろう。そうする代わりにフランスの司令官はフライブルクの陣にとどまり、公子カールが分遣隊すべてを集めるのを許した。さらに異常なのは、軍の3分の1をドゼー将軍麾下でライン右岸[ママ]に送り出した後も、残る3分の2を完全な破滅の危機に晒しながらなお同じ優柔不断な状態を続けたことだ。この誤りは重要だ。20日より以前のビベラッハの勝利に鼻高々な時にはあり得なかった敗北し打ち負かされた態度で、軍は混乱したままフランスに再度入ることになったからだ。もしすぐ戻っていたなら、そのような見た目にはならなかっただろう。
 第7。この戦役の奇妙な特徴は、フランスの将軍たちが、自らの失敗にもかかわらず、実質的な敗北を蒙ることなく、常に全てを取り戻す機会を持っていたところにある。モローはビベラッハの戦い後、なお戦役の運命を支配していた。彼は単にロトヴァイルへ行軍し、あわせて1万5000人に満たなかったペトラッシュとナウエンドルフを押しつぶしさえすればよかった。その後、彼はレンヒ河口で9000人未満の戦力しか持たなかった大公へ行軍すべきだった。モローがライン渓谷に到着した10月15日になってさえ、彼は急ぎケールへ行軍することによって状況を取り戻すことができた。そうすることで彼は大公をレンヒから追い払い、ナウエンドルフとラトゥールの部隊との合流を妨げられた。そしてその時点でサンブル=エ=ムーズ軍と連絡が取れるため、彼は間違いなくその軍に前進するよう仕向けただろう。最後に彼は橋頭堡を包囲されている間においてすら過ちを修正することができた。もし彼がケールの防御陣地から5万人を率いて押し出していれば、多くとも3万5000人を超えなかったラトゥール将軍の包囲軍を圧倒し、そしてドナウ河畔で冬営することができただろう。
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