1796ドイツ―ナポレオンの所見2

 所見2――(ジュールダン)――第1。戦役開始時点でサンブル=エ=ムーズ軍司令官はすぐライン両岸で作戦を行い、その左翼は中央と右翼から河によって分かたれた。もし6月7日にクレベールがアルテンキルヒェンで1万5000人ではなく3万人に攻撃されていたら、彼は危険な状況に置かれただろう。6月1日に全軍はデュッセルドルフで合流し、ジーク、ラーン、及びラインへと行軍し、すぐれた高地に陣を敷いてそこに塹壕を掘り、ライン方面軍がライン右岸へ渡るのを待つべきだった。
 第2。大公が分遣隊と伴にラインに到着したことは、ジュールダン将軍に軍の位置を変えることを強いるものではなかった。彼はまず戦線を縮小してラーン沿いの陣地を維持し、そしてもし補給拠点に接近することを決めたのなら、彼の全軍をライン右岸にまとめて保持しながらそうすべきだった。そうすれば彼の態度は敵を威圧し、敵はラン=エ=モーゼル軍に対抗するため24個大隊を派出することでその戦力を彼の前で敢えて弱体化させようとはしなかっただろう。
 第3。7月初頭、サンブル=エ=ムーズ軍は再度前進した。ライン軍による渡河は、大公に上ラインへ急ぐことを強いた。彼はヴァルテンスレーベンの3万6000人のみを残し、その部隊は全滅させられるべきだった。しかしこの時代の原則は、覆いをたたくかのようにあらゆる方向へ行軍するというものだった。敵の後衛は同じ戦力によってのみ追撃され、同時にその右翼や左翼を迂回されることも、中央を突破されることもなく、決して危険に晒されず、持ちこたえられる程度の損失をもたらされるだけだった。
 第4。サンブル=エ=ムーズ軍の司令官は、その左翼をザクセン(この国はちょうどプロイセンの中立に加わり、結果としてその派遣部隊はオーストリア軍から去った)の山地に拠り、右翼を守られないままマイン河からシュヴァインフルトとバンベルクへ移動した。この移動により彼はライン方面軍からの距離を広げた。彼がドナウから遠ざかる一方、後者の軍はその河の右岸へ渡ったからだ。それぞれの軍はすべきであった機動と正確に反対の行動を取った。コンパクトな密集にまとまるため後者が右翼に、前者が左翼に拠るべきだったのに、前者は右翼にそして後者は左翼に拠ったのだ[ママ]。
 第5。サンブル=エ=ムーズ軍は8月8日にバンベルクでレードニッツを渡り、ニュルンベルクとラウフへ行軍し、それから左へ曲がってスルツバッハとアンベルクを経てナープへ移動した。かくして30リューの行軍の間、その右翼[ママ]をボヘミアからの進出口に、いまだに敵がバイエルンとレッヒ右岸とヴァルニッツ左岸を占拠しているためその地域の支配者となっているドナウに左翼を晒した。かくして軍は、狭く細長い30リューの長さに及ぶ縦隊を組み、あらゆる方向を敵に囲まれていた。もしフランクフルトからバンベルクまでの30リューの行軍が、両軍の合流という視界に入れておくべき目的に反するものであったとしたら、バンベルクからアンベルクまでの行軍は性急で、明らかに軍の存在を危うくするものだった。バイエルンのこの地域、レードニッツ右岸は、ボヘミアに至る最初の丘による隘路で溢れ返った困難で不毛な土地であり、ニュルンベルクからアンベルクへの道を除いて何の連絡路も存在しない。この街道を守るためジュールダンはベルナドット師団を彼から10リュー離れたノイマルクトへ送り出し、ラティスボンを脅かそうとした。サンブル=エ=ムーズ軍はフランクフルトからマイン左岸に沿って進むべきであり、メルゲントハインまで前進してライン方面軍左翼と合流することでその右翼の安全を確保し、それから右に転じてその左翼をラティスボンへ持ってくるべきだった。ヴュルツブルクに到着してからもなおその右翼をニュルンベルクと並べる時間はあった。司令官はそこからノイマルクト街道を経てラティスボンへ接近するよう行軍すべきだった。いずれにせよ彼は退却が必要になった際には決してレードニッツを下るようにではなく、遡るようにしてラインの左岸へ機動すべきだった。
 第6。サンブル=エ=ムーズ軍司令官は公子カールが彼に向かって行軍してきた時、彼がベルナドットを打ち破った時、彼がラウフとニュルンベルクを支配した時、そして自軍のあらゆる連絡線が遮断された時に、それぞれ忠告を受け取った。これは彼の作戦線の置き方が悪かったためであり、彼が戦争のあらゆる原則に反した機動を行ったからだ。
 第7。しかしベルナドットが敗れた際に、なぜ司令官は誤った陣地を占めるようなまねをしたのだろう? 彼は大公がアンベルクに到着する前にナープを強行渡河し、そこから数リューの距離しかないラティスボンへ前進し、そこでライン方面軍との合流を果たすべきだった。最初の力強い移動は公子カールに彼の軍を集結させるよう強い、そして彼が全分遣隊を呼び戻すことでフランスの将軍が常に退いていた増大し続ける空想上の嵐を晴れ上がらせ消滅させただろう。オーストリア軍は誤った情報を広め、住民の間に間違った考えを宣伝するのに極めて長けていた。彼らは軍の背後に警報を発生させる技術の名人だった。しかし、リナルドの剣を鞘から抜いてしまえば、魔法はすぐに解ける。
 第8。――その1。ヴュルツブルクの戦いでジュールダンは無分別にも兵力の4分の1をシュヴァインフルトに残した。彼が保有していた兵力にルフェーブル師団を加えれば勝利を確保できただろう。その2。もしかれがこの町を9月2日の午前2時に出発していれば、彼は戦場に10時に到着していただろう。そして頭から敵に突っ込んでいけば、彼はホッツェとスタライの20個大隊を圧倒し、ヴュルツブルクを奪ってマルソーとそこで合流できただろう。大公は下手なやり方で彼の戦力を分散させており、3日のかなり遅い時間にならなければ合流させることはできなかった。しかし、2日の正午に到着しておきながら、ジュールダンは大公に軍を再編する18時間を与え、彼は3日午前9時には4万5000人を戦線に並べた。――その3。ジュールダンは戦場で必要な分の3倍の陣地を占めた。彼は兵を一線のみに並べることを余儀なくされ、そして彼らは勇敢だったものの、打ち破られるあらゆる可能性がそこにはあった。
 第9。コブレンツからギーセンへ至るラーンの流れは24リューに及ぶ。その川はデュッセルドルフから30リューの距離があった。もしジュールダンが彼の全師団を最左翼のヴェッツラーに集めていれば、彼は敵を破ってマインまで、そのすぐ後にはドナウまで撃退していただろう。マルソー軍団とオランダから来た師団との合流後、彼の兵力は大いに数で勝っていた。彼はこうした意図について言及していたが、実行に移すべきときに計画の立案によって時間をつぶしてしまった。彼の軍はラーン沿いに哨戒線を敷いたが、マルソー軍団の退却によってリンブルクで戦線は破られた。そこで彼は大急ぎでアルテンキルヒェンへ縦隊を退却させた。その2。その地点からもなお攻撃作戦を再開し、全てを取り戻すのには間に合ったが、彼には決断力が欠けていた。その3。退却を命じた時、それが不可避だと考えていたなら、彼は少なくともデュッセルドルフの防御宿営地まで全軍を集結させて退却を行うべきだった。ライン右岸に大軍が残っている限り、軍にとってこれほど重要な攻撃的移動を常に懸念していた大公は、彼の戦力を派出することができなかっただろうから。しかしジュールダンがアルテンキルヒェンで軍をバラバラにした時に全ては失われ、そして左翼のみがデュッセルドルフへの移動を続ける一方、残りはあたかも左岸とフンズリュックに何か脅威があるかのようにラインを再渡河した。かくしてドイツの中心部にはラン=エ=モーゼル軍が残り、大公はそれを狙った。ラン=エ=モーゼル軍は見捨てられたのだ。
 第10。オランダの兵の増援を受けたサンブル=エ=ムーズ軍の10、11、12、及び1月の行動は説明しがたい。
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