1796ドイツ―ナポレオンの所見1

 以前、1796年ドイツ戦役に関するセント=ヘレナのナポレオンの解説"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/1796napo.html"を翻訳したことがある。ただ、その際には概要を言及した後にナポレオンが述べていた「所見」については翻訳しなかった。今回はその分を翻訳してみることにしよう。
 

 所見1――この戦役の不幸な結果は政府が採用した作戦計画に帰せられる。このドイツへの侵攻目的は以下の通り。第1にウィーンの政府がイタリアの軍を増援するためラインの軍から新たな分遣隊を引き抜くのを妨げるための陽動をする。第2にドイツ帝国諸侯の部隊を皇帝から引き離し、バーデン、ヴュルテンベルク及びバイエルン公を征服し、さらにプロイセンの中立と、ザクセン及びまだ加盟していない北方諸侯との協力によって同盟を強化する。第3にドイツでの戦争を支援し、歩兵、騎兵、及び砲兵の必要とするあらゆるものを供給するためそこから分担金と馬匹を引き出し、さらに共和国自身の資源を使って予備軍を創設する。第4にライン国境を守るためエーレンブライトシュタイン、メンツ[マインツ]、マンハイム、及びフィリップスブルクの要塞を奪い、これらの場所を封鎖している兵を戦役の終結と次の戦役に使えるようにする。第5にフランス兵のドイツでの冬営地と陣地を守るためインゴルシュタットとウルムを奪い、1797年春にマントヴァを奪った後にイタリアとドイツから[オーストリア]世襲領を連携して攻撃できるようにする。
 これらの目的のためには2つのことが必要だった。第1にエーレンブライトシュタインとフィリップスブルクを完全に封鎖し、メンツとマンハイムを包囲する。第2に包囲及び封鎖軍を守るため、強力な野戦軍が戦場をドイツの真ん中まで進め、そして世襲領を脅かす。この軍はそれぞれ歩兵3個師団といくつかの猟騎兵及びユサール旅団から成る4個軍団と、重騎兵予備によって編成され、全部で14万から15万人になる。
 ライン監視軍は、合計で歩兵7個師団といくつかの騎兵旅団の全体で6万人になる3個軍団で構成されるべきだ。2個師団から成る第1軍団はオランダとデュッセルドルフを守り、エーレンブライトシュタインを封鎖する。3個師団から成る第2軍団はメンツを包囲する。2個師団から成る第3軍団はフィリップスブルクとマンハイムを封鎖し、ケールとユナング橋頭堡を守る。2個軍の全兵力は従って20万から21万人になるだろう。これだけの兵力は存在した。ライン方面軍とサンブル=エ=ムーズ軍は戦役開始時点で兵力16万人、オランダ方面軍は3万人、ラ=ヴァンデとフランス国内からもはやその地で不要になっていた兵2万人を引き出せば、合計21万人になる。
 メンツでは封鎖開始後に攻囲用の塹壕を掘るべきである。6、7、8月及び9月の期間があればそこを奪うには十分だっただろうし、同じ攻囲用装備を使ってマンハイムを奪うのに十分な時間すらあった。エーレンブライトシュタインとフィリップスブルクの要塞は9ヶ月の封鎖には抵抗しきれなかっただろうし、冬の間には降伏しただろう。大陸軍の合流は2、3及び4月の間にその移動を隠しながらライン左岸のストラスブール城下で達成すべきである。これほどの規模の軍が突然にラインを渡り、あらゆる方向に素早く前進し、河を守るため散らばった兵を押しつぶすことを考えれば、かなりの成果が期待できただろう。敵の軍はおそらくラインを放棄し、ドナウ河畔に集結しただろう。フランス軍はおそらくウルムを占拠し、作戦の中心となるその地点から、ケール、ノイ=ブリザッハ及びユナングへ通じる唯一の作戦線を使いながら、ヴュルテンベルク領内へ、ヴァルニッツやレッヒへ、またバイエルンへ機動できた。軍はその大集団によってあらゆるものを圧倒し、ドイツ帝国諸侯を武装解除し征服した後にオーストリア君主領の国境で冬営を張ることができただろう。
 パリで採用された計画は異なる精神に着想を得ていた。第1に各拠点は封鎖も包囲もされず、遠方から監視されただけだった。第2にそれぞれ全く反する2つの作戦線を持つ2人の将軍に率いられた2つの互いに独立した軍がドイツに侵入した。彼らは連携も連絡も取ることなく行き当たりばったりに行軍した。彼らは本格的会戦での敗北を経験しないまま撃退された。これらは全て流行していた誤った軍事原則から生じた。敵がコンデ、ヴァランシエンヌ、ランドレシー、及びケノワを支配していた1794年戦役で、フランス軍が中央への直接攻撃に何回か失敗する一方、軍を北方軍とサンブル=エ=ムーズ軍に分けて前者をピシュグリュが敵の右翼へメナンを通って海岸沿いに、もう一つをジュールダンが敵左翼へサンブルを通って進めた時に成功した際にも、この過ちは見られた。この作戦計画の結果はベルギーの征服であり、敵はローエル及びラインの彼方へ追い払われ、少し後にフランドル地方の要塞は相次いで降伏した。
 しかしこれらの見解から引き出された原則は誤っている。この戦役の成功は決して作戦計画に帰せられるのではなく、むしろそれどころか計画の欠陥にもかかわらず、共和国が国境に展開した兵力の優勢のみによって実現した。従って、2つの軍に分割されたにもかかわらず、それぞれの共和国軍はオーストリア軍全体とほぼ同じ戦力を保有していた。フルーリュスの戦いでクレアファイト将軍はジュールダン将軍と同じくらいの数の軍を保有していたが、ジュールダンの軍がフランスが北方に配置していた兵の一部だったのに対し、クレアファイトは彼の戦力の大半を集めていた。彼が戦闘を最後まで持ちこたえて勝者になれば、彼は後にフランスの膨大な大隊数にもかかわらずピシュグリュを打ち破れただろうし、フランス軍は計画の欠陥ゆえに屈服していただろう。もし右翼と左翼に2つの軍を置くのではなく、フランス全軍がサンブル河畔のフルーリュスの戦場で合流し、ダンケルクには監視軍団のみを残していれば、クレアファイトの倍の兵力を持つジュールダンの軍は何の抵抗にもあわず、激流のように敵左翼を迂回し、ラインへの退路を断ったことだろう。勝利は確実かつ決定的だったに違いない。しかしこうした軍事原則からもたらされる不利は外国への侵略戦争の際にはより危険になる。1794年に2つのフランス軍の側面は以下のように守られていた。一方はシャルルモン、ギヴェ、及びフィリップヴィユに、もう一方の翼はダンケルク要塞と海に。そしてもう一方の側面は要塞またはフランス領の一部に拠っていた。2つの軍の連絡は中央の位置にある敵に邪魔されたが、もう少し後方を通じてつながれていた。1796年戦役では2つの軍の左翼、右翼及び後方はいずれも同様に守られてはいなかった。フランドルでは2つの軍は24時間ごとにパリからの命令で管理されていた。1796年には中央からの指示は不可能で、あらゆる作戦は1人の司令官から発せられるべきだった。しかし司令官は2人いた。従って、1794年には戦役計画の誤った原則によってフランスが決定的な優位を得るのが妨げられ、そして1796年にはサンブル=エ=ムーズ軍とラン=エ=モーゼル軍の敗北と災厄の原因になったと言って問題ないだろう。
 共和国は平和を望み、ラインをその国境にしようとしていた。敵がメンツを占領している限り、この国境を得ることは適わない。従ってメンツを包囲する必要があったが、メンツは左岸にあるため包囲するのにより危険な場所だった。ある地域を征服するため行軍している軍は、その両翼を中立地帯か大きな自然の障害物、例えば大きな河や山脈に拠るか、もしくは片翼のみ、もしくはまったく翼側を守られない状態になる。第1のケースでは正面が破られないよう気をつけさえすればいい。第2の場合は片翼を支援できるように、第3のケースでは異なる部隊が中央をよく支援し、そこから離れないようにする必要がある。両翼が守られていないことで困難が発生するのなら、その不利は4つの翼側がある場合は2倍に、6つある場合は3倍、8つある場合は4倍になる。つまり、軍を2つ、3つ、あるいは4つに分けるとそうなる。軍の作戦線は第1のケースなら右翼でも左翼でも問題ないだろう。第2の場合は守られている翼側に置く必要がある。第3の場合は軍の中央の行軍線に垂直に置かなければならない。いずれにせよ5日か6日の行軍ごとに、弾薬と物資を集積し、輸送隊を組織して行動の拠点を作り、作戦線を短縮するための地点を決める砦あるいは塹壕を掘った陣地を作戦線上に置く必要がある。ドイツ侵攻においてはウルムが最初の自然な地点だ。ドナウに面するこの場所は、そこを占拠した軍に両岸を機動する便宜を提供する。ここはインゴルシュタット、ラティスボン[レーゲンスブルク]、パッサウ、及びウィーンの城下を洗う欧州最大の河沿いに多数の貯蔵所を収容できる比類のない場所だ。フランス側ではこの場所はシュヴァルツヴァルトの出口に当たる。
 
 以下次回。
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