造反・その2

 Google Book Search"http://books.google.com/"で"Memoires of Marshal Ney"という本を見つけた。彼の家族が出版したものの英訳本で、1833年にロンドンで出版されたようだ。表題には第一巻とあり、中身を見ると1799年ごろまでがカバーされている。
 問題は、明らかにスキャンミスしたと思われるページが多いこと。貴重な文献をネットで見られるようにしてくれる点は大変ありがたいのだが、読めないところがあまりに多い。まさに画竜点睛を欠いている状態。多少、金を取っても構わないからもっとまともな仕事をしてくれと言いたい。
 ところでネイに関しては、以前記した1796年の将軍たちの造反にかかわっていたかどうかが気になっているところ。確かNafzigerはネイもヴュルツブルクの戦い当時には指揮権を投げ出したと記していたはずだが、回想録にはどうあるのだろう。早速調べてみたところ、ヴュルツブルクの戦いについては以下の短い文章だけが見つかった。

「[カール]大公は引き続き全軍で共和国軍を追撃した。ヴュルツブルクの戦いは後者[共和国軍]の状況を悪化させただけだった。フランス軍は敗北し、その地の平穏な住民たちは武器を持って立ち上がり、フランス軍の分遣隊を排除し、輸送隊を奇襲した」
"Memoirs of Marshal Ney" p191

 これを読んだだけではネイがこの戦いの最中に何をしていたかは分からない。Nafzigerの言う通り指揮権を返上して何もしていなかったのか、それとも戦闘に参加したのか。真相は藪の中だが、ジュールダンが辞任を言い出した原因にクレベールがいたであろうことは以下の部分に引用されている彼の手紙を見れば分かる。1796年9月1日(ヴュルツブルク会戦の2日前)にジュールダンが総裁政府に当てて記した手紙だ。

「にも関わらず彼ら[軍]は前進を続けた。しかし逆境と不運が兵たちの指揮官に対する信頼を壊し、兵たちの一部は命令に不十分にしか従わず、他の者は無気力にゆっくりと行軍した。決して個人的動機で行動することのなかったジュールダンは、指揮官を辞任するよう求められていると考え、高潔な率直さで実際にそうした。彼は総裁政府に以下の文章を送った。
『軍の指揮権を引き受けるにあたり、私は自らのささやかな能力で可能な限り、そして私自身が判断して有利な状態でできる期間のみ、祖国に仕える以外には何の希望も持っていませんでした。それゆえに、任務に伴う良心の求めに応じ、これ以上サンブル=エ=ムーズ軍の指揮権を保持することはできないと伝えるのが私の義務です。私は部下の将軍たちの信頼を失い、そして彼らは疑いなく私が彼らの上官にふさわしくないと考えています。彼らは私の誠実さに[以下判読困難]。
 市民総裁殿、あなた方は私が部下の将軍たちの信頼を失えば、すぐにその配下の士官たちの、そして最終的にはただの兵士たちの信頼も失うと感じているはずです。従って私の更迭と、私がもはや喚起する力を持たない信頼を呼び起こせる軍事的才能を持つ指揮官の任命が至急必要です。私が思うに将軍たちはクレベール将軍が彼らの上官になるのを見れば喜ぶでしょう。
 市民総裁殿、私が公共の福祉に対する献身と、たとえ私自身が任務から離れても祖国にとって役立つ存在でありたいという望みからこの決断を下したことをあなた方は疑いなく理解してくれることでしょう』」
"Memoirs of Marshal Ney" p189-190

 結果として彼の辞任は受け入れられた。クレベールがジュールダンを指揮官の地位から引きずりおろした格好だ。そして、ジュールダンが辞めてしまえばクレベールはそれで満足だったらしく、同書p198にはブールノンヴィユが指揮官になった際にクレベールがサンブル=エ=ムーズ軍の中央部隊を率いたということが書かれている。

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