イタリア1792-95 その10

 リヴィエラ=ディ=ポネンテにはニース伯領を守り川を塞ぐ3つの防衛線があった。右翼は海に、左翼は山岳部の稜線によって支援されていた。防衛線の第1はボルゲットーで、第2はモンテ=グランデ、第3はタッジャだった。ナポレオンはずっと前にこの3つの防衛線を参謀副官サン=ティレールと伴に偵察していた。彼は勇敢で優れた士官であり、後に数多くの会戦で最高の名声を獲得し、そしてエスリングの戦場で将軍として戦死した。ボルゲットーの防衛線では海が右翼の拠る場所であり、ロアーノから1リーグの場所にあるボルゲットー村は丘の上にあり、ロアーノの平原全体を見下ろしていた。そして巨大な孤立した岩が左翼を構成していた。この岩の上にマセナが堡塁を築いており、トゥーロンのマルグレーヴ要塞にちなんで軍はそれを小ジブラルタルと名づけた。その向かいにはプリースト平地があった。そこからは険しい岩山を越えてオルメア、ロアーノ、及びロッカ=バルベナを見下ろす高地へと連絡が取れた。モンテ=サン=ベルナルドとガレッシオはこの防衛線から外れており、当然敵に属していた。しかしオルメアは守られていた。この防衛線は極めて強力だった。その広がりはかなりのもので、5から6リーグに達していたが、そのほぼ全ての場所で難攻不落だった。防衛線はスカレロ街道を経由してのみ攻撃が可能だったが、そこには同名の城があり、防衛の準備が整っていた。戦闘においてここは素晴らしい陣地になった。7、8、9月にかけてデヴィンズは何度かこの防衛線への攻撃を計画したが、決して敢えて本気でそれを実行しようとはしなかった。スカレロからアロソイアの小川の背後を通ってアルベンガで終わる防衛線があり、スカレロからボルゲットーの間で防衛線が抜かれた場合にはよい陣地となった。
 コル=ディ=ピッツォとコル=ディ=メッツァ=ルナに隣接し、サン=ロレンツォの背後で海に拠るモンテ=グランデの陣地はより劣った防衛線だが、にもかかわらず極めて強力だった。その右翼をタッジャ川の河口に、中央をモンテ=チッポに、そして左翼をモンテ=タナルドとコル=アルデンテへ、そしてそっからコル=ディ=テンデへ連絡している防衛線は、ボルゲットーほど強力ではなかったが、モンテ=グランデよりは強力だった。第1の防衛線はオネリアと、オネリアからボルゲットーまでのリヴィエラにある全陣地を守っていた。第2はオネリアとオルメア、そしてタナロ川からの全ての出口を守っていない。第3はオネリアからサン=レモ間のリヴィエラ=ディ=ポネンテ全体を守っていなかった。最後の防衛線は、サン=レモを守ることができ、そこから追い払われた場合にも何ら戦線の崩壊をもたらすことなくその町を撤収しそことボルデゲーラ間にあるオスピタレットに拠ることができるという、独特の利点を持っていた。敵はタナロ渓谷から押し出し、アリオル山の陣を奪い、それからモンテ=グランデとオネリアへ向かうよう脅かすことで、第1の防衛線を迂回できた。しかしオルメアとアリオル山は防衛線にとても近く、予備部隊がこれらの陣地の防衛を務めることが可能だった。彼らはまたコル=ディ=テンデを経て迂回することもできたが、これは戦場を変えることになる。我々に知られることなくこれだけの大きな動きをすることはできなかったし、敵の兵が行軍を始めた時は、彼らがボルゲットー防衛線の前に残した部隊を攻撃し粉砕する時を我々の見張りに教えてくれることになっただろう。第2の防衛線と、何より第3は、それより前方にあるタナロ渓谷を経由した迂回をされやすくなく、コル=アルデンテと、即ちコル=ディ=テンデまでは連絡しているという利点があった。そしてコル=アルデンテとタナルダはコル=ディ=テンデの防衛に貢献しているだけでなく、たとえコル=ディ=テンデが突破されても後方にあるニースへ通じる道を通ってサオルジオの隘路に先に到達することもできた。従って、ニース伯領の防衛だけを考えるなら、全兵力が集結して手近でコル=ディ=テンデを防衛することができるタッジャの防衛線が最良であった。
 政府はイタリア方面軍の指揮はケレルマンの能力を超えていると考えて9月に彼をアルプス方面軍の司令官とし、スペインとの講和で不要になった東部ピレネー軍を指揮していたシェレール将軍にイタリア方面軍を委ねた。シェレールは優秀な兵から成る2個師団の増援をイタリアに連れてきた。オーストリア軍も同様に増援された。1795年戦役で彼らは宮廷の希望を叶えてはいなかったが、なお重要な成功を収めていた。彼らはサン=ジャックとヴァドの陣を奪い、ジェノヴァとの連絡を絶ち、英国艦隊との連携を確立した。
 11月初頭、フランス軍は引き続き5個師団でボルゲットーの防衛線を占めていた。セリュリエ将軍麾下の左翼師団はオルメアに、マセナ将軍とラアルプ将軍麾下の2個師団はスカレロとカステル=ヴェッキオに、そしてオージュロー将軍とソレ将軍麾下の2個師団はボルゲットーの向かいに位置し、全体で実働戦力は3万5000人から3万6000人の間に達した。
 オーストリア軍の司令部はフィナーレにあり、ピエモンテ軍から成る右翼はガレッシオにあった。アルジャントー麾下の中央はロッカ=バルベナに、オーストリア軍のみで構成される左翼はロアーノ前面にあって、平野部を守るため数多くの堡塁を構築していた。彼らの戦力は4万5000人だった。秋に発生した病気はピエモンテ軍同様、彼らにもかなりの損害をもたらした。フランス軍もそこで生き延びるのがとても困難な状態となり、季節の進展に伴い兵は冬営に入ることを切望するようになった。シェレールは彼の冬営の安全を確保し、ジェノヴァとの連絡線を回復するため、敵に山の向こう側で冬をすごすことを余儀なくさせるべく戦闘の危険を冒すことを決断した。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック