Curtis Cateの"Russia 1812"をやっと読了。1985年に書かれた本の割には実によく調べてあった。特にロシア側の記述が充実しているのが特徴だ。一方、他の1812年本に比べて明らかに少ないのがモスクワからの退却に関する描写。ほぼ400ページの本文のうち、ナポレオンがモスクワから撤退を始めるのは330ページ前後だ。通常ロシア遠征ではその退却場面に焦点が当てられることが多いのだが、この本はそのあたりにあまり重点を置いていない。
ロシア側の動向に関する描写はかなり詳細で、たとえばミロラドヴィッチが大陸軍を追跡する際にどの軍団を率いていたかなどもきちんと記されている(通常はミロラドヴィッチの前衛部隊といった表現しかなされないのだが)。また、前にも指摘した通り、バルクライに対する評価がかなり高く、たとえばヴォルツォーゲンからボロディノやその後のロシア軍司令部の状況を聞いた際のアレクサンドルの言葉などが詳細に紹介されている。
「バルクライがいささか退屈で、時折余を適切に理解していなかったのはそなたも知っている通りだ。しかし彼が高潔かつ有能な人物で、その力を全て余と国のために注ぎ、人として下劣なクツーゾフより圧倒的に抜きんでていることについては、余も同じ考えだ」
Cate "Russia 1812" p375
実際、1813年戦役でバルクライが一時的に連合軍の指揮を執ったことに触れている1812年本というのは、他には滅多にないだろう。
逆に散々批判されているのはクツーゾフであり、ベンニヒゼンだ。クツーゾフについては特に大陸軍が退却を始めてからの追撃ぶりがあまりに不徹底であったことが非難されており、ベンニヒゼンについては単純に戦術的能力が欠如している(モスクワ前面で彼が選んだ陣地はバルクライ、トーリ、エルモロフ、クロサールらから使えないと烙印を押され、ヴィンコヴォでは彼の判断ミスでミュラの騎兵部隊の大半を取り逃がした)との指摘。ヴィトゲンシュタインもチチャゴフも評価は低い。
フランス軍側ではミュラが自軍の騎兵部隊に不必要な損耗を与えた点がきちんと指摘されている。もちろん、最大の問題はナポレオン自身にあったことは確かだ。他の指揮官たちについては一般的な評価とほとんど変わらない。
Cateによるとロシア遠征による大陸軍の損害は戦闘による死者が12万5000人、捕虜が将軍48人、士官3000人以上、兵士19万人、空腹や寒さ、病気による死者が10万人となっている。合計するとおよそ42万人が失われたということになる。さて、この数字をどう見るか。
Cateが本を書いた当時は大陸軍の実働兵力について現在の見方より多い数字が唱えられていた。それによれば最初に国境を越えたのは45万人、後にロシア領内に入ったものも加えると60万人ほどという数字が一般的に言われている。つまりCateの考えでは遠征軍のうち7割が失われた訳だ。
だが、実際にロシア領内に侵攻したのは当初の時点で30万から33万人。公式記録に残されていた書類上の数字よりかなり少なかったというのが今の説だ。これに増援分(書類上で15万人)を単純に加えても遠征軍総数は45万人から48万人。うち42万人が失われたのなら残りは3万人から6万人となってしまう。シュヴァルツェンベルクのオーストリア軍団(3万人)やヨルク率いるプロイセン部隊(2万人弱)がそれほどの損害を出さずにロシア領から逃げ出したことを考えるのなら、Cateの示した損害はいくら何でも過大評価だろう。実際は30万人強といったところが実際の損害ではなかろうか。それでも当時としてはとてつもない数字であったことは確かだが。
最後に一つこぼれ話を。スモレンスクの戦いの際、ある親衛隊士官が目撃した場面だ。スモレンスクが落ちた後に彼は町の北側を流れるドニエプル河沿いの建物に入り、北岸から狙撃してくるロシア軍の様子を偵察した。「ブラールは彼の傍で大佐の肩章をつけたフランスの士官が銃眼に布陣し立て続けに発砲するのを見た。この狙撃兵は誰かと聞いた彼は、ダヴー元帥だと言われて仰天した」(Cate "Russia 1812" p189)。退却戦の際にはネイが自らマスケット銃を撃つ場面もあったようだが、まあ普通は元帥の仕事じゃないな。
コメント