イタリア1792-95 その9

 VI.
 ナポレオンが辞表を出した8日後、彼が公安委員会の返答を待っている間、ケレルマンは敗北してサン=ジャックの陣を失い、そして素早く増援を得られない限りニースからの撤収すら余儀なくされると書いてよこした。これは大いに警戒感を呼び起こした。公安委員会は情報を得るため、かつてイタリア方面軍にいたあらゆる代議士を集めた。代議士たちは一致して、軍が占めている陣地を最も熟知しており、採用するのに適当な方策を指摘できる人物としてナポレオンの名を上げた。彼は委員会に出席するようにとの要請を受け、シエイエス、ドゥルセ、ポンテクーラン、ルトゥルヌール、及びジャン=ド=ブリーといくつかの会議をもった。彼は命令を作成し、委員会がそれを採用した。そして彼は特別な布告によって砲兵准将に任命され、新たな命令が下るまで軍事作戦の監督業務に特別に任じられた。この状態で彼はヴァンデミエール13日の前の2、3ヶ月をすごした。
 ケレルマンが1795年5月19日にイタリア方面軍の指揮権を握った時、軍は前年10月のカイロの戦闘後にナポレオンが配置したのと同じ陣地にいた。これらの配置は以下の通り。左翼の5000人はコル=ダルジャンティエールとコル=ド=サビオン間。マッカール将軍麾下の中央はコル=ド=サビオン、コル=ディ=テンド、モンテ=ベルトランド、及びタナレルを占拠しており、戦力は8000人。右翼はコル=ド=テルミニ、オルメア高地、コル=サン=ベルナルド、バルディネット、セッテパニ、メローニョ、サン=ジャック、ラ=マドンナ、及びヴァド。この部隊は2万5000人からなり、セリュリエ、ラアルプ、マセナ将軍が指揮していた。
 ウィーンの宮廷はカイロの戦闘の結果とフランス軍が1794年末に占めた陣地に深刻な脅威を覚えた。この布陣はジェノヴァを脅かし、その地の喪失はミラノへの道を開く。オーストリアの最高戦争会議はそこでデヴィンズ将軍麾下のオーストリア軍3万人を1795年戦役のために集め、ピエモンテ軍と連携して行動させようとした。英国艦隊はオーストリアの将軍による作戦を支援するためサヴォナとヴァドの沖合いを航行した。デヴィンズ将軍は司令部を相次いでアクイからデゴへ移し、そこからサヴォナの高地に対して機動して23日にそこを手に入れた。かくして彼は英国艦隊との連絡を確立した。
 デヴィンズ将軍は軍を3つの軍団に分け、6月23日に前進した。5つの縦隊に分かれた右翼はコル=ド=テルミニからオルメア高地にかけてフランス軍の左翼を攻撃した。中央は3つの縦隊で行軍し、さらに多くの部隊に分割され、バルディネットからサン=ジャック間の全陣地を攻撃した。左翼はヴァドにある右翼の陣地を攻撃した。25日と26日には全面的な血腥い闘争があった。フランス軍はメローニョ堡塁、コル=ディ=スピナルド、及びサン=ジャックの稜線を除いて陣地を保持した。メローニョ堡塁の奪取により、敵は軍の中央を脅かした。この陣は海岸にあるフィナーレからたった2リーグしか離れていなかった。27日、ケレルマンはこの陣地を取り戻すことが重要だと確信して攻撃を命じたが、成功しなかった。28日、彼は退却し、サン=ジャック、ヴァド、及びフィナーレから撤収して一時的な陣地を敷いた。ついに7月7日に、彼からの24、25、26、27、及び28日の報告に対して回答した公安委員会からの命令を受け取った。彼はボルゲットーの陣に軍を配置した。
 ケレルマンは勇敢な兵士であり、極めて活動的で数多くのよき性質を備えていた。だが彼は軍の司令官に必要な才能が完全に欠けていた。この戦争における行為のいたるところで、彼は絶え間なく失敗を犯した。委員会は彼に意見を述べた。「軍は1794年にその戦線をタナロ高地の彼方まで延ばし、その右翼をバルディネット、メローニョ、及びサン=ジャックを通って延長していた。オーストリア軍が英国艦隊と連携して行動するのを防ぎ、敵がジェノヴァを海側から、あるいはコル=ド=ラ=ボーチェッタから攻撃した場合にこの街の救出に急がなければならない状況に備えるためだけにそうしていたのだ。ヴァドを占拠していたのは防御のためでなく、敵が自らリヴィエラに現れた時にそれに向かって前進できるような攻撃的拠点としてである。オーストリア軍がサヴォナに前進するや否や、彼らがその町を奪取してジェノヴァとの連絡線を断つのを妨げるため、軍は彼らと戦うべく行軍すべきだった。もしそうできなかった際には、まず第1に軍はサン=ジャックの右翼を支援するためヴァドから撤収すべきであり、第2に25日の戦闘の結果として敵がメローニョとサン=ジャックの稜線を奪取した際に、ラアルプ将軍が右翼で得た優位を生かして夜の間にヴァドから撤収し、ラアルプの兵を使ってサン=ジャックとメローニョへの攻撃を増強すべきだった。そうすれば完全な成功の栄誉が与えられただろう。第3に、27日にメローニョを攻撃すると決断した時に右翼を連れてくる時間はまだあったのだから、右翼が26日に敵左翼に対して得た新たな成功を利して右翼をこの攻撃に参加させていれば、この機動もまた勝利を決定づけていただろう」。これらの権威的な形式で書かれた文書は幕僚士官の間にかなりの驚きを生ぜしめた。だが彼らはすぐに誰がこれを口述したのか推測できた。
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