イタリア1792-95 その7

 1795年初頭、ホッタム提督は5隻の3層甲板船、2隻のナポリ艦を含む15隻の戦艦と伴にコルシカとイタリアの間を巡航していた。マルタン提督は16隻の戦艦と1万人の兵が乗船している100隻の輸送艦から成る艦隊と伴にトゥーロンで準備をしていた。この軍備の目的地に関しては様々な意見があったが、ラ=マンシュの国民公会議員ルトゥルヌールが桁外れの権力を持って到着した時に、日々行われている侮辱とバスヴィユの血に復讐するためローマを占拠するのが公安委員会の意図であることが知られた。フランスの代理人として教皇の下に送られたバスヴィユは、ローマの学校の芸術家が学内に座っている時、3色の花形帽章を誇示した。この首都にいた多くのフランス亡命貴族は大衆の興奮を煽り立てた。1793年1月3日、暴徒たちがバスヴィユの馬車を石で襲撃した。御者は引き返し彼の家へ向かった。門は壊されバスヴィユは腹部に銃剣の突きを受けた。はらわたを手に掴んでいた彼は、シャツをつかまれ道へ引き出され、とうとう守衛小屋の野外用小型ベッドに放置され、そこで翌日息を引き取った。
 フランスの芸術家を守るため介入したスペイン大使アザーラも危険に晒された。この暴力はフランスで全面的な憤りを巻き起こした。今や復讐の時が到来した。部隊はテヴェレ川の河口に上陸し、数多くの味方が存在するローマを占拠する。この計画実行を検討するためトゥーロンで軍事会議が開かれた。ナポレオンはこの遠征がイタリア方面軍を危険に晒し、遠征自体も破滅的結果に終わるとの意見だった。にもかかわらず、もし遠征が試みられるなら、同時にアルジェンターレ山とオルビテロ、及びチヴィタ=ヴェッキア要塞を奇襲し、軍をそこに上陸させることが必要だった。そうした奇襲を試みるには1万人の戦力は少なすぎると彼は考えた。また騎兵なしでの実行は不可能であった。少なくとも軽竜騎兵あるいはユサール1500騎を乗船させる実用があるが、砲兵と幕僚用の馬匹500頭まで含めるならそれは輸送部隊にとってかなりの追加となった。軍が上陸すると間もなく彼らは5000騎の優れた騎兵を含む2万5000人から3万人のナポリ兵と交戦しなければならなくなる。またロンバルディアからオーストリア師団がやって来ることも予想しなければならない。この作戦は長期間続くものと想定されていないため、ローマのフランス支持派も当てにはできない。そして、バスヴィユ殺害に復讐し、街に寄付を課した後は、再び乗船して去ることを考えるのが適当だ。我々が制海権を握っているとしても、たった1万人でこの作戦を実行するのは危険だった。制海権がないのであれば、この作戦は部隊を確実な破滅へのみ導くものだった。従ってフランス艦隊は単独で出航し、英国艦隊を打ち破って彼らを地中海から追い払うべきであった。それから輸送部隊は出帆し、兵を上陸させた後で艦隊と輸送部隊はナポリの宮廷を警戒状態に陥れその戦力を自らの防衛のため取り置くことを余儀なくさせるため、ナポリへ向かうべきだ。議員は彼の計画が砲兵指揮官から公式の不同意をひきだしたことに不満を抱き、全将官がそれに賛同したことで一層不機嫌になった。海軍士官は敵艦隊がこれらの海上を航行している時に輸送部隊が出帆したら、自国艦隊が危険にさらされると宣言した。マルタン提督は戦闘艦隊のみで出航し、英国軍を追撃することが決定された。
 彼は3月1日に出帆した。サン=フィオレンツォ近くに到着したところで、彼は航路から外れた英国の74門艦バーウィック号を拿捕した。8日にフランスと英国艦隊はリヴォルノ海峡で遭遇した。敵を見るやルトゥルヌールの勇気は挫けた。彼は退却を命じ、今度は英国艦隊が追撃する番だった。13日、両艦隊はリヴィエラ=ド=ジェノヴァのノリ岬沖にあった。74門艦メルキュール号と3層甲板船サン=キュロット号は、夜の間に艦隊から離れてしまった。翌朝夜明け、ヴィクトワール号ともつれてマストが倒れた74門艦サ=イラ号が風下に流された。サンスール号がそれを牽引した。両艦隊は数は同じだったが戦力は違った。フランス艦隊の15隻は13隻に減少し、その中には3層甲板船がなかった。英国艦隊13隻の中には3層甲板船4隻が含まれていた。フランス艦隊は退却を続けたが、2回の交戦を避けることができなかった。サンスール号とサ=イラ号は英国の3層甲板船1隻及び74門艦2隻と戦った。トナン、デュケーヌ、ヴィクトワール号は終日交戦した。のこるフランスの戦列艦は戦闘に参加しなかった。サンスール号とサ=イラ号は勇敢な抵抗の後に拿捕された。艦隊はイエール諸島に停泊し、サン=キュロット号とメルキュール号がそこで合流した。サ=イラ号はスペツィア航路で沈没した。英国の3層甲板船イラストリアス号もまた、戦闘の結果沈没して失われた。かくして双方の損害は艦船2隻だった。この交戦は、当該戦争における両国の間で初めて地中海で行われたものだった。もしフランス艦隊が戦列を組んでリヴォルノ海峡で戦っていれば、彼らはおそらくその旗の名誉を支えることができただろう。
 しかしこの出来事は共和国にとっては極めて幸運だった。もし作戦が成功し英国艦がジブラルタルへ退却していれば、輸送部隊は出帆していただろう。そしてこの誤った計画に基づく合理的目的に欠けた遠征は、最も破滅的な形で終わらないことはできなかっただろう。結局兵は上陸し、彼らが極めて役に立つニースへと2ヶ月後に行軍し、その国境をオーストリアの将軍デヴィンズの攻撃から守った。この軍事行動には数百万の経費がかかったが、大きな利点を生み出すのに失敗しなかった。トスカナ大公は共和国を承認し、カーレッティ伯を大使としてパリに送った。国民公会は1795年3月14日に彼を受け入れた。対仏大同盟への参加を拒否しフランスの代理人を受け入れていたヴェネツィアはフランス艦隊の武装に刺激され、ヴェネツィアの貴族キリーニを大使として送った。彼の任命は3月14日だった。ジェノヴァは中立の決断を改めて確認した。ナポリ王は英国とスペイン艦隊が地中海を意のままにしている時に対仏大同盟へ参加し、トゥーロン防衛に効果的に貢献した。しかしこの君主は、ローマ、サルディニア王、モデナ及びパルマ公と伴に、1796年戦役で共和国の支配力に譲歩することを運命づけられていた。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック