窮地からの脱出?

 ナポレオン漫画最新号。今回は実に作者が楽しそう。戦闘シーンでのミュラとランヌの顔といい、シドニー・スミスのうろたえっぷりといい、クレベールの激怒といい、そして何よりボナパルトの悪党顔一覧といい、いつもよりかなり力が入っているように見える。普段の原哲夫風の絵柄を今回はかなり崩しているが、それはそれで面白いからOK。
 あと、ミュラへの救済措置が発動。今回の活躍が描かれないと次は(アウステルリッツは既に終わっているため)アイラウまで目立てない可能性もあっただけに助かったってところか。しかし一緒に活躍したはずのベシエールとジュノー"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51104749.html"は戦闘シーンには一切姿を見せず。代わりに(史実でも確かに活躍したんだが)ランヌがまたも目立つ展開。しかし改めて見てみるとランヌってのはこの時期本当に活躍の機会が多いな。今後を見てもマレンゴにもいたし、アウステルリッツにもいたし、イエナにもいたし、フリートラントにもいたし、アスペルン=エスリングにもいた。実においしいポジションである。

 さていつものように史実との比較を。まずは「ポォォオオッ」ポンについて。シドニー・スミスがアブキール戦の最中に陸上にいた、と書いている本は結構ある。特に日本語文献では参照されることが多い本にそう書かれている。両角良彦の「東方の夢」には、この戦いにおいて「ムスタファに付き添っていた[シドニー・]スミスは危うく難を免れ、命からがらイギリス砲艦に這い上がった」(p298)と記してあるし、長塚隆二「ナポレオン(上)」にも「陸上にあったシドニー・スミスはかろうじて逃げ延びたが、あやうく捕虜になるところであった」(p298)とある。
 ところが、英語文献を見るとそうした話が載っていないものが多い。例えばChandlerのThe Campaigns of Napoleonを見ると、アブキール陸戦を描いた部分(p243-244)にシドニー・スミスの名は出てこない。J. Christopher HeroldのBonaparte in Egyptでも、アブキール砦が落ちた後にシドニー・スミスがネルソン宛に記した手紙こそ紹介されている(p320)ものの、戦闘の説明には登場しない。Paul StrathernのNapoleon in Egyptでも、戦闘シーン(p394-396)にシドニー・スミスは見当たらない。8月のアブキール砦陥落後に命からがら逃げ出した人物は出てくるが、その名はシドニー・スミスでなく6年後にエジプトの支配者となるムハンマド・アリ(p397)だったりする。
 シドニー・スミス自身はどう言っているのだろうか。彼の記したアブキール戦の敗因分析の中に「英海軍准将[シドニー・スミス]が、半島東岸からフランス兵を全て片付けたうえでボートと伴に西方へ向かった際に、トルコのランチが同行することを完全に拒否したのも理由の一つだ。英国のボートが[半島を]迂回してフランス歩兵が海岸沿いの砂州にとどまり、かがみこんでいるのを見つけたとき、英軍のたった2門の大砲から行われた砲撃は、よく働き敵の密集を狙ってはいたものの、敵の壊滅あるいは足止めには不十分であり、むしろ結果としては彼らを駆り立てただけだった」(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?id=WozFAAAAMAAJ" p368)という文章がある。
 つまりシドニー・スミスはこの戦いにおいてずっと英国のボートに乗っており、海からオスマン軍を支援していたのだ。キースが8月11日付で記した手紙の中でも、彼の行動について「シドニー卿はカロネード砲を載せたティーグルのボートと24ポンド砲を載せた12隻のトルコ砲艦を率いて、マスケット銃の射程距離から散弾を浴びせ始めた(中略)そして[フランス]共和国兵が全戦力を半島の西側に集めたのに気づき、シドニー卿はトルコの全ランチに後に続くよう命じたうえでティーグルのボートに乗って回り込んだ」(p374-375)と記している。シドニー・スミスは大砲を積んだボートに乗って戦っていた。彼は上陸しなかったのだ。
 では「陸上にいたシドニー・スミスが九死に一生を得た」という話は日本文献のオリジナル神話なのだろうか。そうではない。英語文献でも、数は少ないがそういうことを書いているものはある。例えばJohn Abbottの記したThe history of Napoleon Bonaparte, Vol. I."http://books.google.com/books?id=gKJBAAAAcAAJ"。「トルコ軍が占拠した場所を陣地に選んだシドニー・スミス卿は、危うく捕虜となるのを避けた。混乱と死の恐ろしい場面の真ん中で、准将はどうにかボートに乗り込むことに成功し、彼の船に向かって漕いでいった」(p235)という話がそこで紹介されている。
 シドニー・スミス自身の報告書を見る限り事実とは思えないこの話を、いったいAbbottはどこから引っ張り出してきたのだろうか。おそらく(大方の予想通り)セント=ヘレナのナポレオンからだ。ナポレオンはGuerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=z6sWAAAAQAAJ"の中で「他の者は恐怖に襲われ、死の前から逃げ出し、巨大な水の中に安全を捜し求めた。彼らは勝者の寛大さよりこの地獄の方を好んだ。シドニー・スミス卿は捕虜になりかけ、苦労してランチに乗り込んだ」(p137-138)と書いている。
 ナポレオンがこの話を言い出したのは、おそらくセント=ヘレナに行った後だ。もっと早い時期にベルティエに書かせたエジプト遠征本Relation des campagnes du Général Bonaparte en Égypte et en Syrie"http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft"でアブキールの戦いについて触れた部分(p164-172)の中にシドニー・スミスの名はない。Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième"http://books.google.com/books?id=iFQUAAAAQAAJ"に載っている7月28日付(p541-543)及び8月4日付(p549-550)の総裁政府への報告書にも、シドニー・スミスは登場しない。
 戦闘から間もない時期に書かれたボナパルト及びシドニー・スミス、キースの記録は、いずれも「シドニー・スミスがかろうじて逃げ出した」話が載っていない点で一致している。つまりそうした事実はなかった可能性が高いと見ていい。「捕まりそうになった准将が慌てて逃げ出した」話が出てきたのはずっと後のセント=ヘレナにおいてであり、要するにこれまたナポレオンがでっち上げた神話・伝説の一種と見なして間違いないだろう。問題はそうした伝説が21世紀の今になってもなお生き延びていること。実に息の長いミームだ。
 もちろん、漫画というフィクションの中でシドニー・スミスが命からがら逃げ出す場面が存在することには何の問題もない。他のキャラ同様、今回はシドニー・スミスにとっても「百面相を見せる回」だったわけで、沖合いのボートから砲撃を浴びせるシーンだけではここまで愉快な顔を描くことは難しかっただろう。フィクションが史実より面白さを優先するのは当たり前である。

 いつものように長くなったので以下次回。
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