たまには思いつきで書きなぐってみよう。
フランス革命戦争初期に連合軍に対仏宣戦布告を煽っていたエミグレたちは、プロイセン軍が堂々とパリへと行軍すれば革命政府は転覆するとマジで信じていたらしい。彼らのあまりに楽天的で浮世離れした見解は実際は大ハズレで、結局パリにたどり着くのに四半世紀の時間と百万人単位の死者を乗り越える必要があったのは歴史の通り。
では、フランス革命戦争期にパリまで連合軍が乗り込むことは不可能だったのか。そうは思わない。少なくとも2回くらいは「もしかしたらパリに連合軍がたどり着いていたかもしれない」と思える局面はあった。それについて少し考えてみよう。
まずあり得ない事態を除外する。フランス国内の王党派が自力でパリを落とす可能性はなかったと言っていいだろう。最も強力な王党派が跋扈していたヴァンデですら、地元を離れるとろくに戦うことすらできなくなった。フランス南部の反政府勢力もしかり。真面目にパリを目指した例としてはノルマンディーからパリへ進軍を図った連邦派の例(1793年)があるが、防衛に出てきた部隊と接触するや早々に逃散してしまったそうなので話にならない。
スペイン軍とピエモンテ軍も対象外だ。スペイン軍はフランス国境を越えて少し進むのが精一杯であり、正規軍がほぼ不在で国民衛兵に頼るしかなかったフランス軍すら攻めあぐねている。もともと兵力不足で、Jominiに言わせれば「野戦軍の戦闘員は8万人を超えることがなかった」スペイン軍が、総動員によって百万人は言いすぎだとしてもそれに近い数を集めたフランス軍相手にパリまで進軍するなど夢のまた夢である。最初からサヴォイとニースを取られ、取り返すことすらできなかったピエモンテもしかり。
結局、パリへの進軍が可能なのは残る列強諸国。さらに、フランスがライン河を越えて勢力を伸ばした後にやっと対仏同盟に参加したロシアもパリを目指すのは無理だとすれば、残る3ヶ国――オーストリア、プロイセン、英国――にしかパリ陥落は達成できない。
プロイセン軍にとって最大のチャンスは1792年のシャンパーニュ侵攻だろう。実際、Chuquetに言わせれば、この時フリードリヒ=ヴィルヘルム2世かブラウンシュヴァイク公のどちらかが決定的な主導権を握っていれば、革命政府が潰えた可能性はあるんだそうだ。フリードリヒ=ヴィルヘルムが主張したようにまっすぐパリへ向かっていればデュムリエも対応する時間の余裕がなく、パリは落ちていたかもしれない。ブラウンシュヴァイク公が実権を握って慎重に歩を進めていれば、悪天候で退却を余儀なくされることなくフランスに圧力をかけて革命政府を追い詰めていたかもしれない。
だが、プロイセン軍は中途半端な行動にとどまった。一気に進めばいいときに慎重に前進し、天候が悪化し補給が拙いという局面でいきなり突進して敵中に孤立した。ヴァルミーは軍事的勝利というよりデュムリエによる外交的勝利といった方が適切だが、デュムリエが術策を弄する前にプロイセン軍がパリに迫っていれば、あるいは術策を弄しようもないほどきちんと地歩を築いていれば、革命は3年半で終わっていたかもしれない。
もう一つのチャンスは1793年夏。デュムリエが敗北してベルギーからフランス軍が撤退した直後の時期だ。迫り来る連合軍から国境を守るべき北方軍は大混乱。30万人の動員こそ発令したもののまだその兵は使えるまでには至らず、総動員令はこれから出すという局面である。この時、フランス北部国境に迫っていたオーストリア軍と英国軍(とオランダ軍とハノーヴァーなどのドイツ諸侯軍)が一気にパリを目指していれば、革命政府は崩壊したかもしれない。
問題は連合軍の司令官たちにそういう考えがおよそ存在していなかったように思えるところ。ザクセン=コーブルク公は明らかにフランス国境付近の要塞を奪うことで外交交渉の材料を手に入れるのを目的にしていたし、ヨーク公はこれまた自国の利害だけを重視して単独でダンケルク攻撃に踏み切った(そして失敗した)。前年までやる気があったように見えたフリードリヒ=ヴィルヘルムもこの時期にはポーランドの方に関心が移っており、モーゼル河附近で戦っていたブラウンシュヴァイク公はどう見てもやる気がなかった。熱心に戦っていたのはヴルムゼルだが、彼の目的もパリ進軍ではなくアルザス占領にあったようだ。
この2回の時期を除けば、フランス革命中に連合軍がパリへ迫る可能性はないと見ていいだろう。1794年以降は反撃を許して連合軍は退却ばかりを強いられたし、1799年には逆襲に出たものの自然国境を越えることすらできていない。連合軍のパリ占領が現実になった1814年まで、エミグレの夢が実現することはあり得ないと言っていい。
連合軍のパリ占領による革命の短期終了が現実になるためには、実際の両軍の戦力がどうだったかをもっときちんと調べる必要があるだろう。1814年も15年も、実際にパリが落ちた時には連合軍は圧倒的な優位を誇っていた。1792年や93年時点でそれだけの数をそろえていたかというと、詳しく調べていないがそこは疑問だ。もちろんフランス側にナポレオンというチートな存在がない点は割り引けるけど。
18世紀の連合軍が、ブリュッヒャー麾下の軍勢のように素早く移動できたかという問題もある。何のかんの言いながら1814年や15年の連合軍は永きに渡る戦争で相当に鍛えられた連中だ。同じことを、例えば七年戦争以来本格的な戦いをほとんど経験していなかった1792年のプロイセン軍に要求できるだろうか。
軍事的条件はともかく、現実に革命を終わらせたいなら政治的条件も必要になるだろう。1814年や15年のパリにはナポレオンに反対する潜在的な勢力がかなりあった。しかし、八月十日事件直後のパリにエミグレを歓迎する連中がどの程度いたかというと、これは疑わしい。まして1793年となればパリ市民の大半が国王弑虐の共犯者だったような時代だ。前年にブラウンシュヴァイク公宣言を出したばかりの連合軍相手に、市民が死に物狂いで抵抗した可能性は否定できない。
エミグレ側も同じだろう。1814年にはルイ18世は憲法を受け入れる姿勢を示すことでパリに戻ってくることができた。しかし革命直後の1792年や93年に、ブルボン王家やエミグレたちがそこまで民衆に譲歩する姿勢を示せたとは思えない。軍事的にパリを落とすことができる条件が整っていたとしても、それが即革命の終了になる保証はない。
それでもなお、パリを軍事的に制圧して革命を終わらせる可能性はあっただろう。最終的にそれを妨げたのは、直接的には連合軍側にそれほどの強い意志がなかったことが大きな要因だ。1814年や15年との違いはそこにある。逆に言えば、1814年や15年の連合軍は些細な利害の差をあっさり乗り越えられるほどコルシカの食人鬼を恐れていた、とも考えられる。
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