トゥーロン攻囲初期

 今回で1000エントリーとなるので、ここは初心に帰ってナポレオンが始めて歴史の表舞台に出てきたトゥーロン攻囲についての面白い指摘を紹介しよう。トゥーロン攻撃のために構築された最初の2つの砲台、モンターニュ[山岳派]とサン=キュロットに関する話だ。
 一番最初につくられたのはモンターニュで、完成は1793年9月18日。この砲台と、その次につくられたサン=キュロットの建設はその2日前に攻囲軍に赴任したブオナパルテが指揮したというのが通説だ。たとえばChandlerは「サリセッティとポール・バラス(中略)の巨大な影響力に支援され、ブオナパルテは内湾の西岸を見下ろす丘の中腹で2つの砲台――モンターニュとサン=キュロット――の建設を監督した」("The Campaigns of Napoleon" p23)と記している。
 古い本にも新しい本にも、基本的に同じ話が書かれている。1906年に初版が出ているThe Boyhood and Youth of Napoleon"http://books.google.com/books?id=S1XMTEahxFwC"には「到着の翌日、9月17日の夕方に、ナポレオンは見つけられる限りの重砲を集めた。そして彼は『モンターニュ砲台』と呼ばれる新たな砲台をつくり、そして9月19日、ラ=セーヌ沖合いに停泊していたフリゲート艦1隻とはしけを追い払った」(p88)という文章がある。2005年出版のToulon 1793"http://books.google.com/books?id=L8dD_gR4BmEC"にも「1793年9月18日朝、モンターニュと名づけられたボナパルトの新たな砲台が5門の大砲と伴に作戦可能となった」(p42)と書かれている。
 彼らの論拠となっているのは、おそらくサリセッティの報告だろう。彼は公安委員会への9月26日付の報告書で「火曜日[17日]から水曜日にかけての夜間、ブオナパルテ大尉は弾薬庫を見下ろすガレーヌに砲台を構築した」」(Recueil des actes du Comité de salut public, Tome Septième"http://www.archive.org/details/recueildesactes01provgoog" p79)と書いている。当事者の一人が記したものだから立派に一次史料と見なせるし、それに基づいて本を書くのもおかしくはない。
 だが、一次史料は一つとは限らない。ブオナパルテ以外の人物がモンターニュ砲台の構築を主導していた可能性を示す史料がある、と主張している人もいるのだ。Une famille militaire au XVIIIe siècle"http://www.archive.org/details/unefamillemilit00teilgoog"には、Archives historiquesに残されていた史料に基づく以下のような主張が記されている。
 
「新たな砲兵指揮官[ブオナパルテ]はモンターニュ砲台の構築に足跡を残していない。シス=フールの役場に対してシャベルとくわを持つ30人の労働者を提供するよう命じた9月16日付の要望には『海岸近くに構築された堡塁の砲兵大尉である市民マテューが彼らを雇うため』と書かれている」
p373-374
 
 砲台をつくるため労働者を集めたのはブオナパルテ大尉ではなくマテュー大尉となっている。そして、この要請文は史料としてはサリセッティの報告よりもほんの数日だけだが古い。サリセッティがブオナパルテと同郷であり、彼に対して有利になるようなことを報告書に書いた可能性まで踏まえるのなら、この指摘は無視できないものとなるだろう。湾内における英海軍の活動を抑制するため海岸沿いに砲台を構築するというアイデア自体は、ブオナパルテのものではなかったかもしれないのだ。
 
 それに対し、モンターニュのすぐ後に完成し20日から砲撃を始めたサン=キュロットはブオナパルテが間違いなく関与していたようだ。だが、この砲台に関しては別の問題がある。
 21日夕、それまでトゥーロン市街中心に展開していた連合軍は、エギエット岬のある半島に上陸し、ル=ケールの高地を占領した。後に小ジブラルタル(フランス側が英国堡塁と呼んでいたことは既に指摘している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/50508812.html")が築かれる場所だ。以後、12月のトゥーロン陥落までこの地点を巡る戦闘がブオナパルテの仕事の中心となる。それだけ重要な場所を、なぜあっさりと連合軍に確保されてしまったのか。
 サリセッティによれば「カルトーが無能だったから」となる。彼は26日の報告書の中で「全てが我々の思い通りに進み、我々は成功を確信していました。我々がセーヌ村を通過して小さな渓谷の上にある高地を占拠し、すぐにエギエットとバラギエ要塞を奪わなくてもその高地に構築する砲台から湾内全体を砲撃するのを妨げるものは何一つ存在しませんでした」(Recueil des actes du Comité de salut public, Tome Septième, p79)と記しており、彼らが最初からル=ケール奪回を目指していたと主張している。
 では「なぜ我々はそうしなかったのでしょうか? それは、我々の計画を理解し採用していると我々が信じていた[カルトー]将軍が、その計画を信用していなかったからです(中略)。我々の将軍がトゥーロンを攻撃する唯一の実用的な計画を理解しなかったのに対し、英軍は危険を見てとり、土曜日[21日]の夕方には兵を上陸させて高地を奪いました」(p79-80)。トゥーロンについて書かれた書物の中ではブオナパルテがカルトーの無能を非難していたこともよく紹介されており、彼とサリセッティが歩調を合わせて司令官批判を展開していた様子が窺える。
 
 トゥーロン陥落のきっかけがル=ケール(小ジブラルタル)奪取にあったという結果から見れば、サリセッティの指摘は妥当なものだとも思える。しかし、これにも異論を呈する人はいる。Norwood Youngが記したThe growth of Napoleon"http://www.archive.org/details/cu31924024328969"がそうだ。
 同書のp314からp320には、このトゥーロン攻囲初期段階に関する様々な史料が紹介されている。その中には上に紹介したサリセッティの報告もあるし、他にカルトーやブオナパルテ自身の書いた報告なども掲載されている(さすがにマテュー大尉に関する史料は見当たらないが)。それを踏まえたうえでYoungは2つの疑問を指摘している。「1、9月21日のル=ケールに対する英国の攻撃を事前に防げなかったのは誰の責任か? 2、英国がその高地を確保するのを許したのは誰の責任か?」(p320)
 Youngは21日より前に書かれたサリセッティの報告書に、ル=ケール奪取計画が全く言及されていないこと、さらにカルトーに対する不満も表明されていないことを指摘する。また、ブオナパルテも英軍の上陸が行われる直前まで湾内西部に展開する英海軍への砲撃に集中していた。砲兵士官としての教育を受けたブオナパルテがル=ケール奪取の重要性を理解していなかったとは思えないが、それを最優先事項としていた証拠もない。
 同書p322にはグラネが書いたサン=キュロット砲台の絵が載っている。「サン=キュロット砲台にあるナポレオンの大砲が、湾内方面に見える帆の方角を向き、右側に見えるル=ケールの高地を無視しているのが分かる」(p322)。少なくともル=ケールが連合軍に奪われるのを避けるために大砲をそちらに向けるといった行動すらしていなかった証拠であり、ブオナパルテ自身が連合軍によるル=ケール奪取に不意をつかれたのだ、とYoungは見ている。
 サリセッティとブオナパルテは、この失敗をカルトーに負わせることでギロチン送りを避けようとしたのではないか、というのがYoungの推測だ。サリセッティは30日付の手紙でもカルトー批判を繰り返し、一方のカルトーは10月6日付の陸軍大臣への報告書で彼らの行為を「極めて邪な背信」(p318)と述べ、その主張を否定している。20日には「砲兵は彼[カルトー]の自由にならず、指揮官ブオナパルテは常に彼と逆のことをしている」(p319)と嘆いているくらいだ。
 後に砲兵大尉ブオナパルテは皇帝ナポレオンにまで成り上がり、彼の発言は後の歴史において極めて重視された。結果、カルトーは無能であることがほぼ誰も否定しない事実として定着した。しかし、Youngの指摘が事実なら、カルトーとブオナパルテの間に(少なくともトゥーロン攻囲初期段階において)それほど大きな差が存在したのか、疑問を感じずにはいられない。歴史は勝者の視点で描かれる。サリセッティやブオナパルテとの内輪揉めで敗者となってしまったカルトーは、もしかしたらその実力を不当に低く評価されているのかもしれない。
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