今回はだらだらと雑談を。まず面白かった話が
こちら に紹介されていた「ネコのイヌ化が進んでいる」という話。かつて
ロシアの研究者がギンギツネの家畜化を試みたという話 を紹介したことがあるが、この記事で紹介されている研究者もその話に触れ、ネコにもそうしたことが起きているのではないか、と指摘している。
キツネの実験にも見られたように家畜化(人に馴れるようになる)傾向がほんの数世代で現れるのだとしたら、ネコのように短期間で世代交代する動物で人間の観点から見るとかなり急速に、例えば研究者がネコについて研究している最中に家畜化が進む可能性は確かにある。この研究者によればネコの飼い方の変化(放し飼いから屋内飼育へのシフト)、血統書による猫の種類の確立(野良ネコとの交配が減り、大人しいネコ同士の掛け合わせが増える)といった流れから、ネコの多くは「人にフレンドリー」になっているのだそうだ。
ネコはイヌと性質が違うという話は色々なところで紹介されているが、その差が飼い方に由来しているのだとしたら、実に興味深い。さらに飼い方が変わってネコがイヌ化しつつあるとなれば、ではその結果としてネコの行動がどう変わるかも知りたいところ。一方で、ネコの鳴き声やのどを鳴らす行為がイヌ化への変化の一つという見解についてはちょっと疑問がある。例えば今から100年以上前の本には
「ゴロゴロと猫の喉を鳴らす様な音」 という記述がある。ネコはそれだけ昔から喉を鳴らしていたわけで、最近の変化とは思えない。
本当にネコのイヌ化が進んでいるかどうかは分からない。記事の中には踏み込んだ説明が見当たらないし、もしかしたら研究者自身も具体的な論拠をさほど持ち合わせているわけではないのかもしれない。でもそうした傾向があれば面白いのも事実。できればもっときちんと調べる人が出てきてくれるとありがたい。
一応、文中にはTurchinの
War and Peace and War が出てくるので、
永年サイクル を想定してその危機局面を紹介しているのかと思ったのだが、中身は必ずしもそれと一致しているわけではない。というかむしろTurchinが
Secular Cycles の中で統合局面と見ている16世紀が出てきたり、同じくむしろ欧州では人口増が続いていた13世紀についてもモンゴルによるユーラシア征服を論拠に災厄扱いするなど、必ずしもTurchinの議論と辻褄が合っているとはいえないものが入り込んでいる。
いったいこの文章の筆者がどこからこの「7つの災厄」という概念を持ち出したのか、それが分からないことには信用できるかどうかの判断すら困難。Turchinのようにデータを論拠として主張すれば説得力も増すが、そうしたものなしにいきなり事例だけ並べられても首をひねるしかない。筆者独自の観点に基づく主張なら、その論拠をもっとはっきり示すべきだろう。今の内容では疑問だらけの文章である。
個人的にこのツイートを読んで思い出したのが、フレイザーの唱えた
「類感呪術」 。似ているものは互いに関係しているはず、という発想がなければ、物理学の変化とAIの性能の変化を同一視することはできないんじゃなかろうか。もちろん両者の間に実は共通したメカニズムが存在する可能性はないではないが、それについてきちんと分析しなければ結論には飛びつけない。飛びついてしまうのではフレイザーの言う「未開人」と同じレベルになるわけで、まあ逆に言うなら人間はそんなに進歩したわけではないという証拠にもなるのかもしれない。
むしろAIの進歩で私が思い出したのは相転移よりも
ロジスティック関数 。この曲線の、ちょうどY軸の数値が急上昇する局面がAIの性能を示すグラフと似ているな、と思った。もちろんこれも類感呪術の一種にすぎない。
イノベーションがどのように広まるかについても似たようなグラフが出てくる という説もあったりするのだが、AIの学習曲線にこうした関数が存在するかどうかを知るにはもっとX軸を増やしてその結果を見る必要があるだろう。いずれにせよ現時点では仮説段階のものであり、はしゃぐ必要はない。
ただビジネス的に考えるなら、
まだ海のものとも山のものともつかない時点で動くのがむしろ正しい行動 。もちろん外れに終わる可能性もある(というかおそらくそちらの方が大きい)のだが、ビジネスにおいて重要なのは当たりか外れかではなく、それに金を出す客がいるかどうか。AIビジネスで客を集めたいのなら、相転移だろうが何だろうが「金を出そう」という気にさせる話を持ち出すのは当然。この話を持ち出したのは企業の執行役員らしいので、そうしたビジネス的嗅覚に基づく発言なんだろう。
最後によく分からなかった話。
こちら で、
最近上映されていた映画 の中の会話を引き合いに出して「労働と読書は両立しない」かどうかについて議論を展開していた。仕事をするようになってから「ゴールデンカムイ」も「宝石の国」も頭に入らなくなり、「パズドラ」しかやる気にならないという映画の登場人物の発言に共感したという同世代の話だ。
共感しているらしい人がいるのは
こちら の反応を見ても分かる。映画では長時間労働と文化的な趣味は相容れないものとして描かれており、実際に労働と読書の両立というテーマが想像以上に切実なのではないか、さらには読書の意志の有無が社会的階級によって異なるのではないか、といった話にまで風呂敷を広げている。正直広げすぎではないかという気はするが、まあそこはいい。今回「分からなかった」のはそこの部分ではない。
分からない理由は「ゴールデンカムイ」や「宝石の国」と、「パズドラ」の間に境界線が存在しているらしいところだ。漫画とゲームじゃないか、似たようなもんだろうと、私のようなおっさんはすぐに思ってしまうのだが、どうやら若者(私から見れば圧倒的に若者)にとっては両者は質的に異なる存在らしい。逆に芥川賞作家の小説は、明らかに漫画と同じ地平で語られている。いやそれどころか「ゴールデンカムイ」は『独学大全』が述べる「勉強・学問」と離れたものではないとまで、この文章では述べられている。
おっさんである私の若いころには、そういう判断基準はなかった。芥川賞作家が「勉強・学問」と同じカテゴリーに入れられる可能性はあっただろうが、ゴールデンカムイがそちらに入ることなど絶対にあり得なかったと言える。逆にゲームを漫画と区別して別物と見なす感覚も、こちらにとってはほとんど未知の感覚だ。正直、スマホゲームをやったことのない私の感覚がずれているのは間違いないと思うが、それにしても「ゲーム」と「漫画」の間に教養の境界線が引かれるというのは実に驚くべき価値観に見える。
ゴールデンカムイが面白いことを否定するつもりはない。でもそれは結局のところフィクションであり、つまりは暇つぶしのために読むものだ。それは芥川賞作家の小説でも、あるいはスマホゲームでも同じ。教養の境界線を引くとしたら、そこではなく、あるいは私の若いころの感覚にあった「小説と漫画の間」でもなく、フィクションと「勉強・学問」の間に引くべきものではないか、というのが私の感覚なのである。でもこの文章で表明されている感覚はそうではないし、それが一定の同意を得ている。
要するに時代が変われば「教養」も変わる、という話だ。そして自分がそれに肌感覚の点で時代についていけなくなっていることも。そうかあ、あんな愉快であまり考えることなく読めると思っていた漫画が、教養扱いされ労働で疲れ切った頭に入ってこないコンテンツになっているのか。正直驚いた。
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コメント
お久しぶりです
地元の地域猫も最近は「家の子」になることも多いようで。最近それを感じました。野良なのに殆ど警戒心を何処かに落としてきたような感じでした。
https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12786496175.html
最近の漫画がかなり高度だと聞いています。私も漫画も見ないしゲームもしないのでその辺のことは良く分かりませんが、そうかもしれないと思う事例に当たったことは多々あります。
https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12786174140.html
2023/02/02 URL 編集
勢いで読ませるタイプの漫画に対し、頭に入ってこないほどのハードルの高さを感じるってのは、仕事だけでどこまで疲労困憊しているのかと唖然とするレベルです。
労働時間は昔より減っているし、最近は睡眠時間も増えているようなので、ゴールデンカムイくらいは楽しく読める人が増えてもらいたいもんです。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC312JW0R30C23A1000000/
2023/02/03 URL 編集